前回は、私たちの魂が人生での”経験”を創り出すために選ぶこととして、「ひと」「場所」「出来事」「条件」「環境」「チャレンジ」「障害」「機会」「選択肢」などがあることが、神さまから説明されました。
私たちは自分の魂が選んだ環境などから、栄光につながる経験を創り出していくことができます。
だから出会った人や自分に備わった条件を祝福し、感謝するようにと神様から伝えられました。
そして偶然は存在せず、私たちが運命に翻弄されることもないということを言われました。
私たちは魂が選んだ環境の中で、自由意志を持って成長・拡大を続けています。
すべては完璧に設定されているのです。
ここでニールさんは、イエス・キリストがたくさんの人たちの病を治したことを思い出して、神さまに質問をしました。
でも、イエスだって病む人を癒しました。
神との対話1 P68
そのひとたちの条件がそれほどに「完璧」なら、どうして、イエスは癒したのですか?
神さまの回答は次の通りです。
イエスは、そのひとたちの条件が完璧でないと思ったから癒したのではない。
神との対話1 P68
そのひとたちの魂がプロセスの一環として癒されることを求めていると気付いたから、癒したのだ。
彼はプロセスの完璧さを見抜いていた。
魂の意図を見抜き、理解していた。
精神的、肉体的な病人のすべてが完璧さに欠けると考えていたなら、イエスは地上のすべての病人を一度に癒したはずではないか?
イエス・キリストに出会った病をもつ人たちは、病をもつことが自分の人生を創る中での完璧な条件でした。
そしてイエス・キリストに会って病を治してもらうこともまた、自分の人生を創るうえでその人の魂が選んだ完璧な出来事だったのです。
ここで神さまは、
”なぜイエスがある者を苦しませておいて、ある者を癒すことを選んだか?
そもそも、神はなぜ苦しみを放置しておくのか?”
という太古からある人類の疑問について説明されました。
その疑問は昔からあるし、答えはいつも同じだ。
神との対話1 P68
完璧だというのはプロセスのことであり、すべての人生は選択されたものだ。
その選択に介入したり、疑問をもったりするべきではない。
まして、非難するべきではない。
私たちは皆、自分の魂が選択した完璧なプロセス(過程)を経て、栄光に近づいています。
そして、魂がなぜそれを選択したのかについては、自分のことならまだ内観することによって解るでしょうが、他人のことについては頭で考えても理解することはできません。
そういう理由で、他人のもつ条件に勝手に介入したり、ひとの人生や選択に疑問をもつべきではないと言われました。
その人にしか解らない何か…その人でさえ自覚できない何かがそこにはあるので、他人の人生を非難しないのが良いのです。
では、どうするべきか。
魂がより高い選択を求め、実行するように見まもり、助けてやることだ。ほかのひとたちの選択に注目しなさい。
だが、決めつけたり、批判したりしてはいけない。
彼らの選択はいまの時点では完璧だということを知っておきなさい。
そして、彼らが新しい選択、異なる選択、より高い選択をしたいと思ったときには、助けてやれるようにそばにいてやりなさい。ほかのひとの魂によりそい、一体になりなさい。
神との対話1 P68-69
そうすれば彼らの目的や意図がはっきりわかってくる。
ほかのひとの魂によりそい、一体になるには、その人に対して愛をもたなければ不可能です。
愛は統合のための”のり”のようなものです。
相手を疑ったり、うとましく思っていると、一体になることはできません。
ネガティブな感情は”分離の力”をもちます。
批判をしていては、相手のことを理解するどころか癒しを施すことはできません。
癒しを求めてくるすべての人を理解して癒したイエス・キリストのもつ愛が、どれだけ大きくて強かったかが、見えてきます。
イエスは彼のもとへきたひとたちのすべて、あるいは差し向けられたひとたちのすべてを癒した。
勝手な判断で癒したのではない。
そんなことをしたら、宇宙の聖なる法則を踏みにじることになっただろう。それぞれの魂に、それぞれの道を自由に歩ませなさい。
神との対話1 P69
神さまは、私たちの魂が選んだものごとや、私たちが進む道に対して、それがどのような道であったとしても”自由”でいさせてくれています。
愛=喜び=自由です。私たちは一人残らず、神(宇宙)に愛されています。
ここまで神の言葉を聞いていたニールさんは、誰かが助けを求めなければ助けてあげてはいけないのか?という疑問をもちました。
「その人の魂が選んだ困難だから」と言う理由で、明らかに困っている人たちを、私たちは助けてはいけないのでしょうか?
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