65.神との対話【解説】P128~131 神への道「十戒は、ない」①

神との対話【解説】P128~131 神への道「十戒は、ない」①

前回まで、ニールさんの質問…「どうすれば人生が上向くのでしょうか」に神さまが答えられ、10の項目が挙げられていました。

私たちは心をととのえ感性を磨いて、自分を変えていくことができます。

人生を上向きにさせ、楽しくそして楽々と、人生の波に乗ることができるようになります。
感情という不確かなものはすべて、「過去」という海の中に押し流されていきます。
より明るい気持ちを感じている未来を選べば、必ずそちらに行けるのです。

ニールさんはその方法を聞いて感謝の気持ちを述べてから、次の質問に移りました。

「真の神への道とは何ですか?」

そして以下のように、ご自分が知るいくつかの「神への道について必要と言われていること」を神さまに伝えました。
1.一部の行者が信じている「禁欲、克己(こっき)、苦行」
2.精神的な美を追求する人が言う「苦しむこと、奉仕すること」
3.多くの宗教が教える「善であること」
4.ニューエイジの考え方である「好きなように行動すること、ルールを侵したり無視したりすること、伝統的な考えをはらいのけて気ままに自由に行動すること」

この質問に対する神さまの答えは、「いずれも(どのような方法をとっても)神の道へと続く」というものでした。
”答えはあなたの内側にあるのだよ”と。

真剣に考えれば、誰でも神への道はわかる。
誰でも心からの真実を見いだせる。
精神の旅を通じてではなく、あなたの心の道を通ってわたしのところへきなさい。
精神では、決してわたしは見つからない。

神との対話1 P128

ここでいう「精神」というのは、「思考」とも置き換えられます。
思考は、神への道についてヒントを教えてくれるものです。
けれども、心(感性・感覚)の道を通ることでしか、神への道を歩くことができないとのことでした。
このことは、「左脳で考えてヒントを得、右脳で感じて神の道を進む」と説明することができます。

次に神さまは、「モーセの十戒」という戒律(「〇〇をしてはいけない」という宗教上の規則)が存在しないことをニールさんに教えました。

モーセの十戒は聖書に書かれ、数千年もの間人々に浸透し、教えられ信じられてきたものです。
それが存在しないと言われた神さまの言葉を、ニールさんはとっさに信じることができず

”まさか。十戒がないのですか?”と、聞き返しました。

全知全能、人間を含めたすべての創造者でもある神は、次のように言われました。

そのとおり。ない。
わたしが誰に戒律をまもれと命ずるというのか?
わたし自身に?
それに、そんな戒律がどうして必要なのか?
わたしが欲するものは何でも存在する、そう言ったではないか?
それなら、どうして誰かに戒律をまもれと命ずる必要があるのか?
それに、もしわたし(神)が戒律を課すなら、当然まもられるはずではないか?
どうしても命令したいと思ったわたし(神)が、命令がまもられるかどうかのなりゆきを見ているなんて、おかしくはないか?

神との対話1 P129

確かに、全知全能でこの世界を創り、不可能なことがまったくない神さまが、誰かに戒律を命ずることは矛盾しています。
神さまなら、誰かに何かを命じなくても、自分が望んだようにできるはずだからです。
神さまが私たち人間を深く愛する”大いなる父親”だと仮定すると、「してはダメ」なことは最初からしないよう私たちを設定するのではないでしょうか。

神さまはモーセの前にご自分が現れた時のことを、ニールさんに次のようにお話されました。

モーセもいまのあなたのように、わたしの前に立ち、答えを乞うた。
「父なる神よ」と彼は叫んだ。
「わが神なる神よ、どうかわたしに示したまえ。
しるしを与えたまえ、わたしがわが民に語ってやれるように!
われわれが選ばれたのだということを、どうすれば知ることができるのか?」

そこでわたしはモーセの前に聖なる約束をたずさえて現れた。
いま、こうしてあなたの前に現れているように。
永遠の約束──ある確かな言質だ。

~略~

あなたがたは神への道をたどっていることを知るだろう。
そして、神をみいだしていることを知るだろう。
なぜならつぎのようなしるし、兆し、変化があなたがたのなかに起こるからである。

神との対話1 P130

こうして、今でも”モーセの十戒”として間違えられたまま存在し続けている内容の真実──モーセとの「約束(言質)」──を、神さまはお話することになりました。

①あなたがたは心のすべて、精神のすべて、魂のすべてをあげて神を愛する。
わたしをおいて、わたしのほかに神はない。
あなたがたはもはや人間の愛も、成功も、金も、力も、いかなるシンボルも崇拝しない。
あなたがたは、子供が玩具をわきへ押しやるように、それらを押しのける。
それらに価値がないからではなく、あなたがたが成長して、それらを「卒業した」からだ。
そして、あなたがたは神への道をたどってきたことを知る。

神との対話1 P130

ここでいう「神を愛する」というのは「自分自身を愛する」という言葉に置き換えることができます。
これまで神さまから何度も説明があったように、自分=神だからです。
実際に今、自分自身のなかに神を感じ、自分を心底愛して大切にできる人たちが数多くいらっしゃいます。

スピリチュアルを知らなくても、愛のなかに生きることで、自分という存在がすばらしい神と同様の存在であることに気付く人もいらっしゃることでしょう。

自分自身が神であり愛なのだと気づけば、「他」を「崇拝する」ことはなくなります。

崇拝しないからといって「価値がない」とみなしているのではなく、ともに地球に存在するものとして尊重し、大切に感じるはずです。
けれども、自分自身(神)に心底愛を感じ・・・自分のすべてをあげて神(自分)を愛することになるでしょう。

②あなたがたはみだりに神の名を使わない。
また、つまらないことで、わたしを呼ばない。
あなたは言葉の力、考えの力を理解する。
神にふさわしくない方法で神の名を口にしようとは考えない。
なぜなら、そんなことはできないからである。
わたしの名──「これがわたしである」という偉大な言葉──は、決してみだりには使われない(したがって、使われれば必ず影響がある)し、みだりに使われることはありえない。
神をみいだしたとき、あなたがたはこのことを悟る。

神との対話1 P131

自分が神であることに気付き、その素晴らしさ…愛の深さを知ったとき、わたしたちはみだりに神の名を使わず、”つまらないこと”で神を呼ぶことはなくなるようです。

神である自分がもつ「言葉や考えの力」を本当に理解して、神をみいだしたとき、私たちはそれがなぜであるかを知ることができるでしょう。

神という存在は、深淵で神聖でありながら、普通でもあります。

ところで、モーセの十戒がないと書かれたこの部分を最初に読んだとき、かつての私自身も衝撃を受けました。
「天国に行くためにしてはいけないこと」として神さまがモーセに提示したとされる”十戒”は、私自身が守ることができませんでしたし、神社仏閣を敬うほとんどの日本人が守れない内容でした。

だからこそ、モーセの十戒を「ない」と言い切るこの本を信頼することができましたし、ニールさんの元に降りてこられた”神”を「ほんもの」と感じることができたのでした。

次回は、神がモーセに伝えた約束の続きを紹介します。

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