69.神との対話【解説】P137 神への道⑤「情熱(欲望)を持つ」

神との対話【解説】P137 神への道⑤「情熱(欲望)を持つ」

前回の復習です。

”天国に行くために十戒を守る必要はないのか”とたずねるニールさんに、神様は言いました。

「自分がすでに天国にいると気づくだけで良い。受容と理解があるだけで、努力や闘いは必要ない」

しかしニールさんは当時、苦しい状況の中にいらっしゃったので、
いらだちながら”わたしは天国など経験したことがない”と言いました。

すると神様は悟りについて、二つのことをお話されました。
①悟りとは、行くべきところもすべきこともないし、いまの自分以外の何者にもなる必要もないと理解することである。
②悟りとは、経験していないことを知ること、それによって経験するということだ。

①は、「『いま、ここ』で、自分らしく在ること」を意味しています。
この概念は現代ではよく知られています。
もっとも自分らしく在るときが、もっとも安全でもっとも喜びを感じられるものとなります。

②の文の意味は理解しにくいと思いましたので、次のように解説しました。

「経験していないことを知ること」の意味は二つあり、
一つは「まだ経験していないはずなのに、あたかも経験しているように感じる(知る)」こと。
もう一つは「自分がまだ経験していないことがあることに気づく(知る)」ことでした。
そのような知恵を得たうえで、私たちは経験したいことを経験することができます。

概して悟りとは、「すべてを知っているハイアーセルフ…高いところにある自分自身の魂…に近づき、重なること」だと、私自身は考えています。

まだハイアーセルフという概念がよく知られていなかった当時、ニールさんは
「経験していないことを知っているはずがない。堂々巡りだ」といらだちを隠せませんでしたが、神様は言いました。

「堂々めぐりをしているというより、わたしたちはめぐる輪そのもので、崇高な輪でもありうる」と。

前回はここまでの対話でした。ここでニールさんは話題を変え、次の質問をしました。

ほんとうの精神生活では、欲望や自我を捨てなければならないのですか?

欲望や自我のことを、総じて「エゴ」と言います。
私たちはエゴを、捨てなければならないのでしょうか。

けれどもエゴは、地球上で生きるために必要なツール(道具)として与えられており、決して無用なものではありません。
エゴもまた、人に与えられた神からの恩恵です。

しかしエゴ(欲望や自我)ばかりが暴走して、愛や喜びなど神に通じる心(魂)の領域から遠ざかり、その安らぎをすっかり忘れてしまうようであれば、私たちは大変生きにくく感じることでしょう。
なぜならエゴは、周囲と切り離して存在する個人(肉体)であると、自分を認識しようとするからです。

神様はエゴを捨てなければならないのか?というニールさんの質問に、次のように答えました。

そのとおり。
なぜなら、つきつめればあらゆる魂は真実でないものを捨てるし、
あなたが送っている人生での真実とは、わたしとの関係だけだから。
しかし、昔から言われてきたような自己否定が求められているわけではない。

神との対話1 P136

私たちは、人間としての魂が成長すると”真実”でないものを捨てることになるそうです。
そして神(自分自身)=愛との関係だけが、私たちの人生での真実とのことでした。

しかし・・・と続いて、エゴを否定することが求められているわけではないと、神様は言われ、次のような長い説明がありました。

①「真のマスター」は、何かをあきらめるのではなく、無用なものを遠ざけているだけである。
②何かに対する”欲望”は克服するものではなく、欲望の対象を変えると良い。(最初はつらいかも知れないが、
 二度目は楽しい実践となる)
③”現世的な情熱”を克服するのではなく、現世的な情熱を理解し、受け入れることで神を知ることにつながる。
④だから自分が情熱を感じるものを批判してはいけない。
 ただそれ(情熱があること)に気づき、どんな自分になりたいかを考えて、
 その情熱がなりたい自分になるのに役立つかどうかを見極めなさい。
⑤覚えておくべきは、あなたがたがつねに自分を創造し続けている存在であるということ。
 創造というものは、主として自分が情熱を感じる人や物に関する”選択”を通じて、行われている。
⑥精神的な道を歩んでいる人は、エゴをすべて捨てているように見えるが、実はそうではない。
⑦精神的な道を歩んでいる人は、エゴを理解し、幻想を見極め、自分のためにならない情熱を遠ざけている。
 そのいっぽうでは、幻想を愛してもいる。
⑧幻想は、自分に完全な自由をもたらすチャンスとして、存在している。
⑨幻想から生まれた情熱は、私たちに「経験」と「創造」をもたらすエンジンとなる。
 情熱は、「思い」を「経験」に変える。
⑩情熱は、ほんとうの自分を表現したいという思いを駆り立てる火である。
⑪だから決して情熱を否定してはいけない。
 否定すると、自分が何者であるか、ほんとうは何者になりたいかを知ることや、
 その先にある(自分自身の)経験や創造が、閉ざされてしまう。
⑫情熱は行為への愛であり、行為は「ある在り方」を経験することだ。
⑬だから悟りとは、情熱を否定することではない。”結果への執着=期待”を否定することだ。
期待なしに人生を生きること──具体的な結果を必要とせずに生きること──これが自由である。
 これが神性である。これが、わたしの生き方である。

私たちは、この世(幻想)の中で生まれてくる欲望(情熱)を愛していて良いようです。
けれどもその欲望(情熱)が、「なりたい自分。自分自身」にとって有益かどうかは見極めるのが良いとのことでした。
有益な欲望ではないと判断したら、欲望の対象を変えてみなさいと言われています。
そしてそれは、最初は辛くても、二度目には楽しい実践なのだそうです。
欲望(情熱)は何らかの行為につながり、その行為こそが私たちにとって最も大切な「経験」につながります。
経験することこそが、人間として生まれた理由と言っても過言ではありません。
だから情熱は否定されてはならないのです。
しかし結果への執着(期待)をなくし、結果を必要とせずに自由に生きることが神の生き方だと言われました。

このことは、宇宙の存在でもあるバシャールさんも、同じことを言われています。
「ワクワクすることを選んで行動に起こし、結果には執着しない」のが、人生を良くしていくフォーミュラ(公式)として紹介されています。

確かに、大きな結果を残す人は、結果に執着して何が何でも…他人を押しやったり、努力で自分を追い込んだりして…結果を手に入れようとしてきたのではないように感じられます。
目標に向かって、楽しく明るい熱意をもってする練習やパフォーマンスなどの”行動”を愛し続けた結果なのだと、大谷選手や人気の芸人さんたちを見ても感じられるのです。

ニールさんが「あなたは結果に執着しないのですか?」と質問をすると、神様は答えました。

決して執着しない。
わたしの喜びは創造にあるのであって、その結果にはない。
悟るとは行為を否定しようと決意することではなく、行為の結果には意味がないと理解することである。

神との対話1 P137

「行為の結果には意味がない」とさえ、神様は言われました。

それが目標を叶えるための行為であったとしても、楽しいことをやっている自分の行動を最大限に愛すること、それこそが自由=愛=神であり、大切なのだと気づかされました。

次回も欲望(情熱)についてのお話が続きます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました