76.神との対話【解説】P155~157 苦労からの脱却②「ほんとうの愛とは」

神との対話【解説】P155~157 苦労からの脱却②「ほんとうの愛とは

前回、ニールさんは神様に、ご自分が置かれている現状とその苦しい思いを伝えました。
二ールさんには奥さんや子供さんたち家族を扶養する必要がありましたが、49歳で失業をしてしまいました。
人生を恐ろしいと感じ、混乱していました。
家賃や電話料金を払うのに四苦八苦し、ご自分を「救貧院行きの一歩手前」だと言いました。
そして、神様がこれまでニールさんに伝えてきたすべてのことを”おとぎ話のような魂の世界のようなロマンティックな人生”と言って、ご自分とは別の遠く離れた世界のように感じていることを伝えました。

その時、ニールさんが必要だと感じていたのは、「現実世界で苦労せずに済む知恵」でした。
質素でも安定した暮らし、収入源を心配しないゆとり、家族にしてあげたいたくさんのこと。
それらが出来ないご自分を嘆いて、
「わたしは、ただ生きるだけではなく、楽に暮らしたいんです」と神様にうったえました。

神様はそのようにうったえるニールさんに、
「わたしの目に映るのは、救貧院行きの一歩手前にいる人間ではなく、豊かな家の一歩手前にいる人間だ!」と伝え、
ご自分(神様)が手渡す小切手を受け取ったら‥‥つまり、神様のために働いて報酬を受け取ったら、
「魂の安らぎだけではなく、もっともっと大きなもの。物質的な安らぎも手に入れられる」と、お話されました。

ここで私が思ったのは、
「神様のために働くとは、具体的に何をすればいいのか?」という疑問でしたが、神様とニールさんは次の話題に入りました。

そして「皮肉なことに…」と、神様が続けました。
”神からの報酬によって魂の安らぎを経験すれば、物質的安らぎについては心配しなくなる”とのことでした。

ここからが今日のお話です。

家族の物質的安らぎにすら、関心がなくなるだろう。

あなたが神の意識レベルにまで向上したら、ほかの人間の魂への責任はないこと、すべての魂が安らかであれと願うのは立派だが、それぞれの魂が自らの運命を選ぶべきだし、選んでいるのだということが理解できる。

神との対話1 P155

人は皆、自分の運命を自分で選んでいると、学んでいます。
自分の両親でさえ、自分で選んで生まれてくるのだと聞いています。
赤ちゃんは、生まれてくる前に自分で設定した「人生のテーマ」を、効率的にクリアさせてくれそうな両親を選ぶのだそうです。
そのような意味で、ニールさんや私たち一人一人は、”ほかの人間の魂への責任はない”のでしょう。

もちろん、意図的にひとを虐待したり、破滅させたりするのは高尚な行為ではない。
また、自分に頼るようにしむけたひとたちの欲求を無視するのもよくない。

あなたの仕事は、彼らを自立させること、できるだけ早く完全に、あなたなしにやっていきなさいと教えることだ。
彼らが生きるためにあなたを必要としているかぎり、あなたは彼らにとって祝福とはならない。
あなたが必要ないと気づいた瞬間に、はじめて祝福となる。

同じ意味で、神の最大の(祝福の)瞬間は、あなたがたが神を必要としないと気づいた時だ。

神との対話1 P156

このお話から、私が思ったのは親子関係でした。
この本を読んだのは20年以上前のことで、私は子育ての真最中でした。
子どもが可愛くて仕方がなかったのですが、「いつまでも母(私)を必要としない子育てをするのが良い」と、神様に直接言われた気がしました。
もともと”子どもの幸せ”について探求していたこともあり、「自立が大切」という自分の考えを後押ししてくれたように感じました。
お互いに愛で繋がっていても「私は私、あなたはあなた」という感覚で育児をすることができれば、子どもたちも自分の考えをもって、自分で自分の望む方向に向かって人生を進めていくようになります。

ニールさんはこのお話を聞いた時、ご自分が長年親しんできた”神に従属すべき”といった教えに反するものだったので、大変驚かれたことと思います。
神様は「わかっている、わかっている‥‥‥このことは、これまで教えられてきたすべてに反すると言うのだろう。」と、ニールさんに言われました。

だが、あなたがたが教わってきたのは怒りの神、嫉妬の神、必要とされることを必要とする神だ。
それは神ではなく、神性であるべきものの神経症的な身代わりにすぎない。

神との対話1 P156

このように言われ、続いて私たちが何を目標にすると良いのかをお話されました。

<真のマスター>とは、生徒がいちばん多い者ではなく、最も多くの<マスター>を創り出す者である。
<真の指導者>とは、追随者がいちばん多い者ではなく、最も多くの指導者を創り出す者である。
<真の王者>とは臣民がいちばん多い者ではなく、最も多くの者に王者らしい尊厳を身につけさせる者である。
<真の教師>とは知識がいちばん多い者ではなく、最も多くの者に知識を身につけさせる者である。
そして<真の神>とは信者がいちばん多い者ではなく、最も多くの人々に仕える者、したがって他のすべての者を神にする者である。
それが神の目標であり、栄光である。
信者がもはや信者ではなくなること、神とは到達できない存在ではなく、不可避の存在であることをみんなが知ることだ。

神との対話1 P156

神様は、私たちに仕えてくださっている存在とのこと。
私たちが自分が「神」であることに気付き、神である自分がずっと存在していたしこれからも存在していくことを知ったときこそ、神様は栄光を経験するとのことでした。

また、「愛を相手をしばるための接着剤にしてはならない」と、神様が言われました。
このことは主に親子関係についてのことと、考えられます。

相手を真に愛すればこそ、相手の幸せを願うことになります。
相手の幸せは、決して「自分に執着させること」ではないはずです。
愛する相手には、”自分で考え、選べる力”、”高い自尊心”を身につけてもらうことで、相手は自分の幸せを築いていけます。

まず引きつけ、つぎに転換させ、反発させる磁石にしなさい。
そうしないと、引きつけられた者はあなたに執着しなければ生きられないと信じはじめる。
これほど真実とかけ離れたことはない。
これほど、他者にとって破滅的なことはない。

あなたの愛によって、愛する者を世界に押し出しなさい。
そして、彼らが自分自身を充分に体験できるようにしむけなさい。
それが、ほんとうの愛である。

神との対話1 P157

”あなたの愛によって、愛する者を世界に押し出しなさい”とありましたが、
ここで「恋愛」について思うことがありました。

恋は依存的であるという性質をもちます。
恋というものは、「相手を欲する」ものだからです。そうでなければ恋ではありません。
恋は、愛とはまったく違う性質をもちます。
愛は「与えたい」と思うものであり、恋は「欲しい」と思うものだからです。
愛は育てていくものですが、恋は”ある瞬間”に落ちるものであり、そして”ある瞬間”に冷めるものでもあります。
愛とは対照的な恋の性質であるからこそ、恋をすると愛について学ぶことが大きいのです。

恋する二人には、「愛を大切に育てていく」という課題が与えられます。
恋愛する二人が共依存することは、普通のことであり、間違いではありません。
相手が、離れたい・あなたとは一緒に過ごしたくないと、望まない限り
”自分が存在しなくても幸せであるように”と、相手を押し出す必要はないと私は考えています。

だからと言って、束縛して相手の自由を奪う必要もありません。
束縛は自分への不信感(自信のなさ)からなる行為であり、愛ではありません。

恋から愛を学び、自分への信頼を学び、幸せを共有することを学ぶことができます。
十分に愛が育った二人は、いずれ笑いの絶えない仲良しの老夫婦のような存在になれるでしょう。
多くの人の人生のゴールは、そのような景色(場面)なのではないかなと、思います。

次回は、「神の場」について神様のお話があります。

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