86.神との対話【解説】P179~180 人間関係⑦「正直であること」
前回の復習です。
人間関係についての前々回までの復習は、前回に紹介していますし長くなるのでこちらでは省きます。
必要な方は前回の記事や動画をごらんください。
前回、
”神は、あなたが愛する相手に自分自身も含めるようにと求めているだけである。
神はさらに先へ進む。
神は、自分を第一に考えることを提案し、勧めている。”と、ありました。
自分を第一に考えるというのは、自分勝手に振舞うということではないことを、
理解されているかたもそうでないかたもいらっしゃると思います。
”気高い意味で自分自身を第一に考えるなら、決して神意にかなわない行動をするはずがない。
したがって、自分のために最善のことをしようとして、神意にかなわない行動になるなら、
問題は自分を第一としたことではなくて、何が最善かを誤解したことにある。”
上記のようにありますので、私たちは「何が自分のために最善か」をよく考える必要があります。
以前、マザーテレサが日本の新幹線に乗ったとき、据え付けてある紙コップが無料であることを知り、全部持って帰ろうとされたと、聞いたことがあります。
(今は廃止されていますが以前は新幹線内に紙コップがありました)
紙コップを持って帰ろうとされた理由は、母国の患者のために清潔なコップを確保することの難しさを知っていたからです。
紙コップを全部持って帰ろうとするマザーテレサは、何も知らない人から見ると確かに自己中心的な人のように見えるでしょう。
しかしすべてを知っていると、その行為は美しく感じられるはずです。
何が善で悪なのか、確かに、私たちに判断することは難しいということが分かります。
「何が自分のために最善か」は自分で決めるしかなく、その結果も自分の体験でしか判断の良し悪しが分かりません。
しかしたとえ判断が悪くて何かに失敗したとしても、体験を通して、次の機会には良い判断ができることでしょう。
私たちはその繰り返しで、成長を続けています。
神様は、”自分にとって何が最善かを見きわめるには、自分が何をしようとしているのかを見きわめなければならない。”
”あなたは「何をしようと」しているのか?
あなたの人生の目的は何か?
その疑問に答えなければ、ある状況で何が「最善か」はいつまでも謎だろう。”
と、書かれています。
「私は何をしようとしているのか?」
「私の人生の目的は何か?」
これは、自分にとって何が最善かを見極めるためのヒントになりますので、
いつも自分に問いかけたいと思います。
神様は、さらに「最善」について三つの例をあげてお話してくれました。
「虐待にあっている場合」と、「親が愛する子どものために叱ること」と、「国家間の戦争」という例えでした。
虐待をやめさせる愛の行為(逃げる)、子どもの最善を考えての愛の行為(叱る)、戦争をやめさせるための愛(方法は幾つもある)という三つの例です。
その中で、「自分にとっての最善」が必ずしも「ほんとうの自分を示すことではない」ことがあることも、教えてくれました。
このことは、非常に愛情深い人が成せることです。
以上が、前回までの復習です。
善悪についてこれまで学んできたことの中に、”じつは、悪というものはなく、ただ客観的な現象と経験があるだけ”というものがありました。
しかしながら生きていると、世の中には確かに善悪があります。
私たちはそれらを見て「悪という現象」を選び出す必要があるのです。
人生の目的からして、あなたは増えるいっぽうの現象のなかから、悪と呼ぶ現象を選び出さなければならなくなる。
神との対話1 P179
そうしないとあなたは自分自身もほかのことも善とよぶことができず、自分自身を知って創造することができないからである。
あなたは何を悪と呼び、何を善と呼ぶかで自分自身を定義する。
最大の悪は、どんなものも悪ではないと宣言することである。
私たちは、今の自分が持つ判断基準で何を善とし悪とするのか決めなくてはならないようになっています。
相対性がある世界の中で、その時点で何を経験するのかを選んで決めるのは自分自身です。
「最大の悪は、どんなものも悪ではないと宣言することである」という一文は、大切な覚えておくべきことと思いました。
この人生という相対性の世界ではすべてがほかとの関係でのみ存在しうる。
神との対話1 P180
人間関係の目的と機能もまったく同じである。
あなた自身を発見し、あなた自身を定義し──あなたが選択するならば──ほんとうの自分自身をつねに創造しなおすための経験の場を提供すること、それが人間関係の目的であり、機能である。
私たちは、たった一人でいるときの自分と、他者と一緒にいるときの自分とを比べると、自分自身の表面に出ているものが変わっている場合があります。
たった一人でいる時は心が安らいで幸せでいっぱいなのに、誰かと一緒にいるときは窮屈な感じがして自分らしさを押し隠している感じがするという人もいらっしゃるのではないでしょうか。
他にも、他人といることで孤独や疎外感、罪悪感を感じる人がいらっしゃるかも知れません。
もしもそのような思いがあるなら、あらためて「自分が何者なのか」を発見して、自分自身を定義して、ほんとうの自分自身を創造しなおすことができます。
この相対性のある世界は、私たちにそれをさせてくれるのです。(しかしそれを選ぶなら、ですが)
さらに、「何が自分にとっての最善か」について考えるとき、誤解されやすいところがあるために、神様が注意を促しています。
神に似た存在であることを選ぶというのは、殉教者になることを選択することではない。
もちろん、犠牲者になることを選択することでもない。
私たちは、神や正義のために自分を犠牲にするという行為を強いられることが、歴史上確かにありました。
それを美徳だとされることが、何度もありました。
けれども、犠牲者になるという選択が「最善」ではないと、ここで神様は言われました。
悟り──そのときには傷つき、被害を受け、喪失するという可能性がなくなる──への途上においては、傷つき、被害を受け、喪失することをみな経験の一部として認め、それとの関係でほんとうの自分とは何かを決定すればいい。
すべての経験が、「ほんとうの自分とは何か」を決める基準になります。
その時点─「今」─の自分は、何者なのでしょうか。
不安に屈する自分でしょうか。それとも、不安を信頼に置き換え、自分の意見を表して毅然と生きる自分なのでしょうか。
人を愛する自分でしょうか。理由があるなら人を嫌う自分でいてもいいのでしょうか。
「ありがとう」と言える自分でしょうか。すれ違う人に挨拶ができる自分なのでしょうか。
確かに、小さな行為から哲学的な思念まで、今自分は何者なのかを、人間関係という経験が教えてくれます。
あなたはひとが考えたり、言ったり、したりしたことに傷つくだろう。
いつか、傷つかない日がくるまでは、しかたがない。その日に最も早く到達する方法は、完全に正直になることだ。
自分がどう感じているかをはっきりさせ、認め、口にすることである。
神との対話1 P180
あなたの真実を語りなさい。
優しく、しかし包みかくさず真実を語りなさい。
あなたが真実だと感ずるように生きなさい。
おだやかに、しかし一貫してあなたが真実だと感ずるように生きなさい。
経験によって新たなことが分かったなら、すなおにすばやく変更しなさい。
正直に生きることを、傷つかなくなる最も早い方法として、切々と説いていらっしゃいます。
私自身はこの文章に大きな意味を感じています。そして影響され続けています。
正直に生きること。それは常に覚えておきたい大切なフレーズです。
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