今日は透き通った青空で、完ぺきな秋晴れの日になった。
青空がずっと向こうまで続き、その中を走る電車がくっきりと目に映る。
涼しい風も時おり吹いている。
ゆづさんと、偽善者という言葉が話題になった。
”偽善者とは偽善を行う人”と、goo辞書には書いてあった。
そこで偽善という言葉について調べると、
”真の性格や性向を隠す一方で、美徳または善といった見せかけの外観をつくることを言う”と、書いてあった。(Wikipediaより)
ここで言う「見せかけの外観」が、例えば誰が見ても確かな「善行」であったとしても、それでもそれを偽善と言うのだろうかと、私は疑問に思う。
純粋な”愛”という理由ではなくて、「これは仕事だから」とか「これをすれば自分の評価が上がるから」「これをすれば天国に行けるから」という自分への利点という理由で誰かに善行を行ったとして、それがたとえ偽善と言われたとしても、それが誰に何の害になるのだろうかと思う。
その善行が、誰かの助けになり、誰かの役に立つ善行なのであれば、偽善でもまったく構わないじゃないか。むしろ、偽善をやりたい人はやってほしいとさえ、思っている。
でも、私自身そう思えるまで時間が掛かった。
青年期、自分のことをたくさん否定していた時期に、私も自分を「嘘つきになりたくない」と思っていた。
「何かがおもしろいわけでもないのに、笑顔を作るなどしてはいけない」
「愛想笑いなど、とんでもない」
と、思っていた。
ところが、アルバイトで接客業をしたときに、
「笑顔が大切」と言われた。
それは嘘ではないのだろうか・・・と思ったけれども、言われたとおりにすると、確かにお客様は喜んでくれた。
人を安心させて喜んでもらえる笑顔というものは、良いものなのだと考えが変わった。
私の中で、それが愛想笑いであったとしても、誰かに向ける笑顔は偽善ではなく、誰かの気分を良くさせられる善行となった。
そして不思議と、笑顔を増やすことで、心から笑えることが増えていった。
若いころ、今よりずっと純粋に、「正直であること」にこだわっていた。
でも、誰かが困っているのに自分が正直であることと、善行をすることと、どちらが大切だろうか。
(自分が疲れているからと、妊婦さんに席を変わることはしてはいけないのだろうか)
絶対に、善行をするのが良いと今は知っている。
だからそれが偽善だとしても、やりたい人はやるのがいい。
それで実際に、誰かが助かったり、良い気分になったりするのだ。
本当はやりたくない(何らかの理由ですることを躊躇する)のに”してあげる”という善行こそ、むしろ神や宇宙に喜ばれる善行なのではないだろうか。
そしてまた、自分も誰かに助けられるのだろう。
人にしたことは必ず自分に返ってくるのだから。
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