84.神との対話【解説】P172~176人間関係⑤「ネガティブな感情を尊重する」
前回までの復習です。
最初に人間関係の本来の目的について、神様が言われたのは以下の通りです。
”(人間関係の)目的は、ほんとうの自分は何者であるかを決め、ほんとうの自分になること、それである”
”(人間関係の)目的は、自分自身のどの部分を「明らかに」したいかを決定することである”
また、「本当の自分らしさ」を、私たちは自分で決めることができるというお話がありました。
自分で決めた”すばらしい自分”を人間関係においてシェアすること、それもまた人間関係の目的です。
そして「他者の価値や神聖さを認めるには、まず自分自身が聖なる存在であることを知らなければならない」とのことでした。
そのために「自己中心的であれ」と神様は言われました。
神様が人々のために送られた教師たち…イエス・キリストのようなマスターたちはみな、「あなたはわたしと同じく神聖である」と人々に言われたそうです。
自分の神聖さに気付き、自分が何に対して愛を感じるのか、何をしたいのか、自分は何者なのか、何をもっているのかを、相手のことよりも先に考えて、自分で把握しておくことが大切です。
このことが上手にできれば、いつかは人間関係に傷つかなくなる日がくるだろうと、神様は言われました。
人間関係に傷つかなくなった時、私たちは”人間関係の真の意味と人間関係を結ぶ真の理由に気づく”ことができ、ようやく”真の人間関係を実現する”とのことでした。
ここからが今日の内容です。
私たちは地球に生まれてきたとき、ほとんどすべてを忘れて肉体をもちますが、ハイアーセルフ(魂)はすべてを知って(覚えて)います。
すべてを忘れる理由は、以前にもお伝えしたように、元々愛でしかなかった私たち(魂)が相対性のある世界を生きる中で愛と栄光を実現させ、経験するためです。
そのような私たちが現在のレベルで生きて人間関係で苦しんでいる場合、「どうしたらいいのか」を具体的に神様が教えてくれました。
あなたが相手の在り方、言うこと、行動に傷つき、苦痛を感じたときには、どう反応すればいいか。
神との対話1 P172~173
まず、どう感じているかを自分にも相手にも正直に認めなさい。
あなたがたの多くは正直に認めるのを怖がる。
~略~
だが、感じるのはどうすることもできない。
苦痛を感じないわけにはいかない。
できることはひとつしかない。
自分の感情を大事にすることだ。
自分の感情を尊重するとは、自分自身を尊重することだ。
私たちは、自分のネガティブな感情を「そんなこと思ったら悪いことが起きる!」とか「そんなことを思う自分はなんて罪深い人間なのだろう」などの思いで、「悪」と決めつけて否定しがちです。
例えば、誰かの何かを見て腹を立てていても、「腹を立てちゃいけない。あの人はこんないい人なのだから」と、自分の感情を否定し、自分自身が実際に傷ついたり困ったりしていることをないがしろにしがちになります。
それは特に、協調性を重んずる日本人に多いのだろうと思います。
しかしここで、神様が言われるのは、「自分の感情を大事に尊重しなさい」ということでした。
自分の感情を大事に尊重しなければ、「愛の在り方」が出来ないのです。
なぜなら、自分の感情を大事にしない=ないがしろにすることは、自分に対して愛ではなく「否定の気持ち」を向けているからです。
自分を否定することは、そのまま他人のネガティブな感情をも否定することになります。
ネガティブな感情をもつ「誰か・相手」を、否定することになるからです。
たとえ表面的には相手を寛容に許しているように見せていたとしても、心の中では、相手のネガティブな面を否定し続けていることに気付くことができるでしょう。
だからこそ、まずは自分のネガティブな感情に気付き、その感情を「悔しいよね」「腹が立つよね」「悲しいよね」と、大事に尊重する必要があります。
あなたがたは自分を愛するように隣人を愛さなければならない。
神との対話1 P173
だが、自分の感情を尊重できないで、どうして相手の感情を理解したり、尊重したりできるだろう?
本当の意味で自分を愛し、他人を愛するためには、自分の感情を尊重することが第一のステップだということが分かります。
ちなみに私のヒーリングスクールでは、そのようなネガティブな感情を書き出すレッスンをしています。
誰かに話すとそれは「愚痴」となり、相手にも自分にも良い影響を与えません。
だからこっそりとノートに「書き出し」をします。
そうすることで、まずは自分の感情を無視したりなかったことにしたりせず、尊重することができるからです。
相手との相互関係のなかで、まず問いかけなければならないのは、自分は何者か、何者になりたいか、ということだ。
いくつかの在り方を試してみなければ、自分が何者か思い出さず、何者になりたいかわからないことは多い。
だからこそ、自分の正直な感情を大事にすることが大切なのだ。最初の感情が否定的な感情でも、何度でも必要なだけその感情を味わえば、いつかはそこから踏み出せる。
怒りや逆上や嫌悪、憤怒を味わい、「仕返し」したいと思っている者も、いつかは「そんな自分にはなりたくない」と考えて否定的な感情を捨てることができるだろう。<マスター>とは、そのような経験をさんざん積んだあげくに、最終的な選択が前もってわかるようになったひとたちだ。
神との対話1 P173
~略~
<マスター>はほかの者なら災厄だと思う目にあっても動じない。
<マスター>は災厄を祝福する。
災難のたねから(そしてすべての経験から)自己の成長が生まれることを知っている。
他人にも自分にも、ネガティブな感情を抱かなくなった存在を、神様はマスターと言われました。
しかしネガティブな感情を「もうこの感情は私にはふさわしくない」と手放してしまうためには、まず自分のネガティブな感情を認め、受け入れ、尊重する必要があります。
そうして自分の、そして他人の痛みや苦しみや怒りなどを充分に受け止めた上で、すべての否定的な感情を手放すことができるのです。
イエス・キリストのような<マスター>になるには、数多くの人生(生まれ変わり)が必要になります。
神様はここで、私たち読者を今はまだマスターに至らない人々とみなして、お話をされました。
何かに悩み、災厄を困難とみなしている私たちは、まだマスターではないのです。
そしてマスターではない私たちはみな、「魂の仕事をしている段階」にいるのだそうです。
けれども、まだマスターではないけれども、私たちは全員「神聖な愛の存在」です。
以前にも学びましたように、愛は不安の対極にあり、さらに愛は不安よりもパワフルです。
私たちは相対性を知るために不安が存在する世界に降りてきましたが、元々は神の分身であり愛でしかない存在でした。
次に、神様は人間関係を含めた経験の中で、私たちは二種類の疑問を抱くと言われました。
一つ目は、マスターが常に抱く「最も気高い選択とは何だろう」という疑問。
二つ目は、「最も有利な選択とは何か、どうすれば失うものを最小限にできるか」という疑問。
私たちはまだ、二つ目の有益性を問う疑問…有利なのはどっち?失わずに済むのはどっちだろう…という疑問をもち、答えを導き出すことが多いとのことです。
しかし神様は、有益性を問う二つ目の疑問をもち、それに答え続けているかぎり、「愛を経験的に知ることはないだろう」と言われています。
その理由は、愛というものは何の保護も必要としないし、失われることもないためとのことです。
つまり、愛を疑っていなければ、有益性を問う疑問から離れることができるのです。
不安が人生に影響して、得たり失ったりするものがあると考える人たちは、二つ目の疑問…「最も有利な選択、失うものを最小限にする方法」を考えることになります。
逆に、自分がもつ愛や自分の神聖さを信じる人は、何かを選択するときに、「最も気高い選択とは何だろう」と常に同じ疑問をもち、同じ回答を得るのだと言われました。
例えば、人と会う約束があり約束の場所へと車を運転しているとして、混んだ道の中で他の車に道を譲らなかったり、危険でも自分の車を優先させたりする人は、不安に基づく(自分に有利に見える)選択をし、行動しています。
「約束をしている人と会えなかったら大変!」と、不安だからです。
同じように人と会う約束をしていても、焦ることなく、落ち着いた安全運転ができ、しかも困っている人や車を見過ごすことなく助けられるようなドライバーは「最も気高い選択」をしていることになるでしょう。
「万一、約束をしている人と会えなくても私は大丈夫」という信頼と愛とが、自分の中にあるからです。
何かを選ぶ必要があるとき、魂のステージが高い人は一貫して「最も気高い選択をする」とのことでした。
そして次のようにも言われました。
最も気高い選択とは、あなた自身に最高の善をもたらすものである。
神との対話1 P176
ここで疑問に思う人もいらっしゃると思います。
本当に、愛に基づいた最も気高い選択は、自分自身に最高の善をもたらすのでしょうか。
そういうことをしていたら、結局、自分に我慢をさせ続けたり、損なことばかりをさせたり、しないのでしょうか。
次回は、最高の「善」について説明します。
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