神との対話【解説】P133~137 神への道④「悟りとは」
最初に復習です。
神さまはニールさんに、長く信じられてきた「モーセの十戒」(十の戒律・やってはいけないこと)について、本当はそれが存在しないことをお話されました。
神さまがモーセに伝えたのは、本当は戒律ではなく約束(言質)なのだと言われました。
130~132ページまで、モーセに話したはずの”十の約束”がどのようなものだったかが、本に紹介されています。
こちらでは要約して、以下のようにまとめました。
①あなたがたは神(=自分自身)を全身全霊で愛することになる。
そうなれば他人の愛をはじめ、成功や金や力やシンボルを崇拝することはなくなる。
それは自身の成長によって、それらを卒業したからだ。
②あなたがたはみだりに神の名を使わず、呼ばなくなる。
自身の言葉と考えの力を理解したら、軽々しく神の名を口にできなくなる。
③あなたがたは一日(日曜日)を聖なる日と呼んで神(=自分自身)のために過ごす。
その日は自分と向き合い自分が何者なのかを思い出せるだろう。
そして間もなく、(一日ではなくて)すべての日を安息日と呼ぶようになり、
どの瞬間も自分と向き合い表現できる聖なるものとなる。
④あなたは、あなたを取り巻くすべての父母(あなたを生かす存在たち)を敬愛する。
また、あなたに命を与えた肉体をもつ父母をも敬愛する。
そうして、この世のすべてのひとを敬愛するようになる。
⑤あなたがたは、植物、動物を含むあらゆるかたちの生命を敬愛する。
殺生を(理由もなく、意図的に)しないあなたがたは、神をみいだしたことを知る。
⑥あなたがたは「不義」を犯さなくなる。不誠実さや誰かをだますようなことをして、愛の純粋さを汚さなくなる。
⑦あなたがたは「盗み」を犯すことはなくなる。他者を傷つけることをしない。
⑧あなたがたは「うそ」を口にしなくなる。
⑨あなたがたは、すべての人を自分の配偶者のように愛することになる。
だから他者の配偶者をわざわざ欲することがなくなる。
⑩あなたがたは、すべての物が自分の物であり世界(地球・宇宙)の物であることを知る。
だから、わざわざ他人の財物を欲することがなくなる。
繰り返しますがこれらの約束は、戒律ではなくて、私たち人間が経験として通る道だとお話されています。
”神を見いだしたとき”私たちは皆、そのように生きることになるのだと、神さまは「約束」をされました。
前回までの復習は、ここまでです。
ニールさんは神さまから十の約束を聞いて、
「わたしは天国に行くために、十戒をまもる必要はないんですね」と神さまに確認しました。
神さまの答えは以下の通りです。
「天国へ行く」のではない。
神との対話1 P133
自分がすでに天国にいると気づくだけだ。
受容と理解があるだけで、そのための努力や闘いがあるのではない。
~略~
悟りとは、行くべきところもすべきこともないし、いまの自分以外の何者にもなる必要もないと理解することである。
現在のスピリチュアルでは、「今ここにあるものごとに感謝する」ことであらゆるものごとがより良く…豊かに幸せになり得るという定説があるのですが、
この本が書かれた当時、そのような智恵はまだよく理解されていませんでした。
「今、ここ」にいる自分の周囲にはあらゆる恩恵が存在しています。
自分自身の身体や精神力だけでなく、才能や生活能力なども恩恵です。
そして私たちは、自分がありのままの自分らしさをオープンにして過ごすことこそが、本当は安全であり、喜びでもある…神の領域に近付いた状態だとスピリチュアルでは言われています。
だから、私たちは悟り(天国に行く)のために、どこにも行く必要はないのです。
また、私たちには夢や希望というものがあり、そのきっかけは何らかの「不足に気付いた」という体験です。
だから何らかの不足を感じることもまた、恩恵です。
おいしい空気や食物、健康、豊かさ、優しい人間関係、幸せと感じるひと時、楽しいと感じる日常…そのうちのどれか一つでも、ただ自分の力だけで得ることは叶わないはずです。
関わってきた多くの人たちや生まれた場所や両親…数々のタイミングなどの奇跡から、今の私たちは成り立っています。
それは今後も同様で、私たちは神(宇宙)の愛を受け入れながら自分が望む現実を創っていくという恩恵を、もうすでに得ています。
私たちは、自分の考え方やものの捉え方次第で、人生はどのような方向にも動けることにも、少しずつ気が付いてきています。
他にも愛することの大切さや、与えたものが返ってくるという真理、石や言霊や植物がもつパワーなど、様々なことを理解して受容することで、(努力や闘いをすることなく)私たちは「自分がすでに天国にいる」のだと気付けるだろうと神さまはお話されました。
けれども当時、ニールさんはとても苦しい状況のなかにありましたから、
そのようなことを理解するのに「いらだち」を感じました。
とにかく、わたしには天国がいま、ここにありえるのかどうか疑問ですし、天国を経験したこともありません。
神との対話1 P135
神さまはニールさんのいらだちに理解を示しながらも、「悟り」についてお話されました。
悟りとは、経験していないことを知ること、それによって経験するということだ。
知ることによって経験への扉が開かれる
──そして、たぶんわかっているだろうが、逆もまた真である。実際には、あなたがたは経験しているよりずっと大きなことを知っている。
神との対話1 P135
ただ、自分が知っていることを知らないだけなのだ。
ここで言われた「経験していないことを知ること」とは、2つの意味があることが考えられます。
1つは、まだ経験していないはずなのに、あたかも経験しているように感じること。
よく、成りたい自分になるために、憧れていたり自分が目標と思っていたりする人のマネをする…演じるのが良いと言われます。
また、引き寄せの法則でも、まだ得ていない何かをまるでもうすでに手に入れたように、喜びや感覚を感じていれば望みのものが手に入るとされています。
もう一つの意味は、自分がまだ経験していないこと(例えばパートナーと愛のある生活を送ることや富豪になることなど)があることに気付くこと。
例えば「私はまだ、心から愛する人との生活を送っていない」と気付いた(知った)とき、そのときようやく経験への扉が開かれます。
心から愛する人との生活とはどのようなものだろう…と考え、そのワクワクした喜びや心地良さ、安らかさを自分の中に感じたとき、私たちはその「望んだこと」を経験する方向へ歩き出すことになります。
望むこと、希望をもつことで、ようやく経験の扉が開かれ、いずれ経験することになるのです。
そして望んでいた”何か”を経験すると、そこで再び、まだ経験していない”何か”に気付くことになります。
気付き、手に入れ(経験し)ての繰り返しです。
そうやって私たちは経験値を拡大していくことになります。(多くの生まれ変わりが必要な所以です)
以上二つの…経験していないことを知ること…によって、すべての現実創造が始まります。
次に、神さまが言われた”実際には、あなたがたは経験しているよりずっと大きなことを知っている”というのは、本来の自分自身=ハイアーセルフのことを言われたのだと理解しています。
現代では”ハイアーセルフ(自分自身の高いところにいる魂)”という概念が知られてきていますが、当時はあまり知られていませんでした。
ハイアーセルフは自分自身の魂でありながら、神に近い領域にあります。
真実のすべてを知り、個人を超越した存在です。
けれども皆さまもご存じの通り、私たちがこの世に生まれ出た瞬間、ハイアーセルフがもつ知識や知恵などのほぼすべてを忘れるようになっています。
私たちが何かの望みを抱いた時にやってくる様々なポジティブな感覚は、すでにハイアーセルフが知っている感覚です。
悟りとは、ハイアーセルフに近づき、重なり、至福や宇宙や真理を感じ取る(思い出す)ことだと理解しています。
余談ですが、私たちはハイアーセルフにアクセスすることで、智恵やインスピーレーションや心の平安などを得ることができます。
望みを持ち、すでにそれを手にしている素敵な状況とその中にいる自分を感じることで、本当にその現実がやってくることになると、引き寄せの法則でもさかんに言われています。
この本を書かれた当時はまだこのような概念が知られていませんでしたので、ニールさんがこのことを聞いてもすぐに理解できるはずがありませんでした。
神さまがお話されたことは当時のニールさんにとって、
「経験してないことを知っているはずがない。堂々巡りだ。」というような現実的な一言で、片付けられてしまうようなことでした。
それでも神さまは言われています。
堂々めぐりをしているというより、わたしたちはめぐる輪そのものかもしれない。
神との対話1 P136
これは必ずしも悪い輪ではない。崇高な輪でもありうる。
この言葉で思い出されたのは、らせん状に上へ上へと伸び続ける「経験と成長」という名のループでした。
色々なことを経験して成長しつつ肉体を持ちながらも宇宙の真理に近づく私たちは、この崇高なループそのものなのでしょう。
次回は、神への道「欲望や自我」についてのお話を紹介します。
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