神との対話【解説】P150~155 目覚めを促す①「魂のゲーム」
前回、第6章が終わりました。
第5章で神様は私たちに、戒律が存在しないこと、本当の自分らしい情熱に従うこと、私たちはすでに天国にいるのだと気づくようにと教えられました。
第6章では、神様は人の苦しみを喜んでいないこと、また(もしも今が苦しいのなら)ほかの生き方をすることで私たちは別の経験を重ね、そこから戦うより愛のほうが良いという真実を見つけるだろうということをお話されました。
今日から始まる第7章は、ニールさんの苦労話から始まります。
二ールさんは神様に、現状とその心境をお話されました。
当時、ニールさんには子供さんを含めたご家族があり、扶養する必要がありました。
夫として父として、家族に最低限のことをする必要があると責任を感じていましたが、
49歳で失業してしまいました。
家賃や電話料金に追われ、もう少しで救貧院に行かねばならないほどでした。
ですから「人生は恐ろしい。混乱している」「わたしは二十年もこの魂のゲームをやってきたのに、いまのざまを見てほしい」と神様に伝えました。
”情熱にしたがい、結果への期待を持たず行動すること”、”自分自身が神の分身であり人は創造の力をもつこと”、”イメージしたことや言葉にしたことが現実になること”といったこれまでの神様のお話を、ニールさんは「おとぎ話のような、魂の世界のような、ロマンティックな人生」と言い、
現実に苦しんでいる自分のこととは、まったく別の遠く離れた世界のように感じていらっしゃいました。
余裕をもって楽に暮らしたいと、神様に伝えました。
それは当時のニールさんの、切なる願いでした。
神様にはニールさんの苦しみが十分に伝わっていたはずです。
”たぶん同じ経験をしたおおぜいのひとの気持ちでもあるのだろう”と、理解を示されました。
そして”ひとつずつ答えていくことにしよう”と言われました。
最初に、ニールさんが”二十年もやってきた”と話した「魂のゲーム」について、
神様は「心から本気で取り組もうとはしていなかったと感じる」と、伝えられました。
次に、以下のように言われました。
「魂のゲームをしている」とはどういうことか、はっきりさせよう。
それは精神と身体と魂をあげて、神の姿をかたどり、神に似せて自己を創出するプロセスに没頭することだ。~略~
それは一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬をゆるがせにしない最高の意識の活動である。
神との対話1 P154
毎瞬くり返される選択と再選択である。
創造しつづけることである。
意識的創造である。
目的をもった創造である。
これまで話し合ってきた創造の道具を使うこと、それもはっきりと意識して、最高の意図をもって使うことである。
それが「魂のゲームをする」ということだ。
この後、神様はニールさんに「それであなたはいつから(魂のゲームを)実行してきたかな?」と聞きました。
ニールさんは、「すみません。まだ、始めてもいません」と答えられました。
魂のゲームとは、「自分が何者であるか」を見つけ、自分にふさわしい行動・言葉・思考を毎瞬、意識的に選び続けることです。
なぜなら、これまで神様が伝えてくれてきたように、私たちは神様に似て、「自分の意識で世界を創造する存在」だからです。
選んで目指すところが決まったら、創造の道具を使います。
創造の道具とは、「思考や感情」「言葉」「行動」です。
行動や言葉は比較的簡単に変えられますが、「思考や感情」を変えるには、自分の思考や感情を観察して自分のネガティブな観念(思い込み)を見つけ出し、勇気を出して変えていくという努力が必要です。
それは「自分を信頼する」という楽しい作業でもありますが、習慣(思考のクセ)を変えるのですから、努力や根気、忍耐強さ、勇気が必要になります。
自分のもつ「思考や感情」にももちろん波動があり、私たちは自分の波動で、周囲に似た波動のものを引き寄せています。
取り巻いている現実を見れば、自分の心の状態や自分が本当は何を信じているのかが、分かります。
「(魂のゲームを)まだ始めてもいません」と神様に謝るニールさんに、神様が伝えました。
「自分に厳しくしないように」
「あなたは一生懸命に努力してきたし、よくがんばってきた」
「どれくらい長く努力してきたかは重要ではなく、いま努力しているか、それだけが問題だ」と。
この世で生きる私たちは、もうそれだけで「がんばっている」のだと私には思えます。
エゴの中で生きるこの世界は私たちに、がんばりを強要するものだと思えるからです。
本当に、私たちはよくがんばっています。
あなたの言葉を考えてみよう。
神との対話1 P155
あなたは、「いまのざまを見てください」と言い、自分は「救貧院行きの一歩手前」だと言う。
だが、わたしはぜんぜんべつの見方をする。
わたしの目に映るのは、豊かな家の一歩手前にいる人間だ!
実際にニールさんは、この本「神との対話」を出版したことで世界的なベストセラー作家になりましたし、お金に不自由することはなくなりました。
神様には確かに「豊かな家の一歩前にいる」ニールさんが見えていたのでしょう。
そしてそれは、(もしも苦しんでいるとしたら)私たち読者にも言えることです。
私たちは豊かな家の一歩手前にいる人間です。苦しみから卒業できる一歩手前まで来ています。
わたしからの小切手──あなたがわたしのために「働く」ときの代償(給料)──は、魂の安らぎだけではなく、もっともっと大きなものだ。
神との対話1 P155
物質的な安らぎも手に入れられる。
だが、皮肉なことに、わたしの報いによって魂の安らぎを経験すれば、物質的安らぎについては心配しなくなる。
ここで神様が言う「わたし」というのは神様のことではありますが、自分自身=神だと以前の解説にもありましたので、自分自身(ハイアーセルフ)と考えると良いです。
私たちが、自分が神(ハイアーセルフ)であることに目覚めない限り、私たちはただエゴの中で生きることになります。
エゴの中で生きると、神と自分自身とは完全に切り離された存在だと認識してしまいます。
けれども真実は、私たちは何とも切り離されていないのです。
ハイアーセルフと重なれば、精神的な安らぎだけでなく、物質的な安らぎも手に入れられると神様は言われました。
けれども物質的な安らぎについては、どうでもよくなり、気にならなくなってしまうとのことです。
家族の物質的な安らぎにすら、関心がなくなるだろう。
神との対話1 P155
聖者は貧乏だと思われがちですが、実はそうではありません。
ただ物質的な豊かさに関心がないだけで、実際には多額のお金(豊かさ)が聖者には入ってきています。
マザーテレサもそうでした。
でも、多額の寄付金が入ってきても、マザーテレサはそれを病の人や死にゆく人たちのために使いたいと望み、そうしてきたのです。
我慢していたわけではなく、ただそうすることを強く望んでいただけでした。
ご自身は確かに豊かな人でしたが、ご自分の豊かさにはまったく関心がなかったのです。
ここで「豊かになりたい」と望む私たちは、まだ「神の領域にいる」のではないことがよく分かります。
けれども今は、それで良いのです。
「豊かになりたい」「人生が好転するにはどうしたら良いのか」と悩む中で、好転する方法が見えてきます。
神との対話も、そのようなニールさんの願望の中で生まれました。
人が成長していく中で、何らか(健康や愛、豊かさ)への願望は、必須なのでしょう。
諦めてしまったり捨て鉢になったりしない、人生への前向きな姿勢からそのような願望が出てきます。
神様が言われるように、まずは頑張って努力して生きている自分を、認めるのが良いです。
次回は、真の偉大な存在たちはどのような存在か、神様がお話されています。
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