82.神との対話【解説】P167~170 人間関係③「先に自分を愛する」

82.神との対話【解説】P167~170 人間関係③「先に自分を愛する」

まずは前回までの復習です。

恋愛問題を含む人間関係について長く悩み続けてきたニールさんは、神様に”いつになればなめらかに、幸せな人間関係をもてるようになるのでしょうか”と、質問しました。

神様は人間関係について、最初に要点を述べられました。
ここにまとめて、要点中の要点を、前回と同様に書いておきます。

①幸せな関係を築くには、”人間関係の本来の目的”のために、関係を活用すると良い
②創造と表現を通して、”自身のすばらしさ”を経験することが、人間関係では可能である
③「他」がなければ「自分」はない
④人間関係について深く理解できると、すべての経験、出会い、関係をうれしいと思えるようになる
⑤すべての関係を”うれしいもの”、”特別なもの”、”自分を創りあげる経験”として捉えると良い
⑥出来事に対して「どうありたいのか」「今、何をするか」という決断を通じて、どんな人間になるかを選ぶことができる

そして前回、上記①にある「人間関係の本来の目的」について、神様がお話されました。

”目的は、ほんとうの自分は何者であるかを決め、ほんとうの自分になること、それである”
とのことでした。
”目的は、自分自身のどの部分を「明らかに」したいかを決定することである”
とも言われました。

相手に「愛」や「自分に欠けているもの」や「自分を満たしてくれるもの」を求めるのではなく、あくまで自分自身が「何者であるか」「自分のどの部分を明らかしたいか」を決定することが、人間関係の目的だと言われました。

たとえば、「私は自分も相手も同時に幸せにする存在だ」と自分で決めて、それこそがほんものの自分であると認識したなら、そのような自分をシェアすることが人間関係の目的です。

恋愛では、たとえば「私は誰かを特別に愛し、伴侶として特別に愛される存在だ」と自分で決めて、そのような自分をシェアすることもできます。

このように、ほんものである自分、真実である自分をシェアすることが人間関係の目的であって、逆に、自分を満たしてくれる誰かを求めることは目的ではないとのことでした。

ここで、いかに「自分」への、強い思いが必要かということが理解できます。

神様は、”人間関係が神聖なのは、最も気高い自分をとらえて実現する経験ができる、つまり自分を創造する最大の機会──それどころか、唯一の機会──を与えてくれるからだ”と、言われました。

最も気高い自分をとらえる…決めて、実現させ、経験する…最大の機会なのだと、人間関係について言われました。

人間関係では、それぞれが自分のことを考えるべきだ。
自分は何者か、何をするか、何をもっているか、自分は何を欲し、要求し、与えているか。
自分は何を求め、創造し、経験しているか。
そう考えれば、すべての人間関係はすばらしいものとなり、その目的に──そして関係を結んでいる人間にとっても──大いに役立つだろう。

神との対話1 P167

自分についてよく考え、知っていれば、そのような自分にふさわしい人を選ぶことができます。
ですから恋愛の前に、まず必要なのは、自分自身について知ることです。

ここからが今日のお話です。

神様は続いて、人間関係について大切なことを述べていらっしゃいます。

人間関係では、それぞれが他者について心をわずらわせるのではなく、ただただ自分について心をくだくべきだ。
~略~
<マスター>は、相手が何者で、何をし、何を持ち、何を言い、何を欲し、何を要求しているかはどうでもいいことを知っている。
相手が何を考え、期待し、計画しているかはどうでもいい。
大事なのは、その関係のなかであなたが何者であるかだけである。

最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。

神との対話1 P167~168

自分を気高い自分であることを決め、気高い自分であるならどのような自分であるかを決定し、そして決定したことを人間関係の中でやっていく。
相手が何者で、何を要求し、計画しているかはどうでもいい。

そのように神様は言われました。
ここで私が感じた疑問は、「相手の心に寄り添う気持ちをもつことは間違いなのか?」ということでした。

すぐに「それは間違いではない」と天から返事が来たような気がしました。
気高い自分が「人の気持ちに寄り添う」と決めたなら、そうすると良いのです。
私がそうだと決めたことなら、「相手の要求や計画していることを尊重し、寄り添うこと」はあって良いのです。

でもそれも、相手に何かを求めておこなっているのではなく、自分が決定した自分を表しているだけです。

最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。

自分は相手のために何かをするのではなく、すべては自分のためにしているのだと自覚すると良いです。
このことは、「情けは人の為ならず」という諺にも通じると思いました。

ニールさんは神様に、その教えについて「ずいぶん過激な教えですが…」と伝えました。

よくよく考えれば、過激ではない。
自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。
多くの人たちは、相手への愛情を通して自分への愛情を求めるという過ちを犯している。

「私があの人を好きなのだから、あの人も私を好いてほしい」とう考え(気持ち)のことを「過ちだ」と、神様は言われました。

次にそれを、”自分がそうしていると気づいてはいない。潜在意識で起こっていることだ”と、言われました。

人から好かれないのは自分が正しく相手を好きではないためだと理由付け、自分が「正しく愛する」ことで人に愛され、そうしてようやく私は自分自身を愛することができるはずだと、考えてしまう人が、多いとのことでした。
確かに、人間関係の中で、ほんとうにけなげにそのように考える人は多いでしょう。

けれどもそれは過ちだと、神様は言われています。
そもそもそのように考えてしまう人は、”すでに愛されている自分”を自覚していません。
「人に愛されることで自分を愛せる」と思ってしまうということは、その時点で自分を愛していないことが分かります。

人からの愛を求めるばかりで、”すでに愛されている自分”や”私は自分を愛している”と思えない人には、何が起きるのでしょうか。
神様は言われています。

これを裏返せば、愛してくれる他者がいないから自分を憎んでいるひとが多い、ということだ。
これは病──ほんとうの「愛の病」だ。
この病にかかると、じつは愛されているのに、それはどうでもよくなる。
どんなにおおぜいのひとが愛を告白してくれても、満たされない。

その理由は、先ほども書きましたように「愛されている自分」を自覚できないからです。

第一に、彼らは相手を信じない。
自分をあやつろうとしているのだ。何かをねらっているのだと思う。
~略~
そして、相手を信じられないので、愛情を証明しろと迫りはじめる。
相手は愛していることを証明しなければならなくなる。
そのために、相手はほんとうの自分とは違うふるまいをしなければならなくなるかもしれない。

第二に、ようやく愛されていると信じたとしても、たちまち、いつまで愛してくれるだろうかと心配し始める。
そこで、愛情をつなぎとめておくために、ほんとうの自分とは違うふるまいを始める。

こうして、人間関係のなかで二人とも自分を失ってしまう。
自分自身を発見することを期待して人間関係を結んだのに、かえって自分を失ってしまう。 

自分を愛せない人が、他人から(そんな自分を)愛されることが信じられるでしょうか。
決して信じられないはずです。

また、上記のような関係を結んでしまったら、何が起きるのでしょうか。

人間関係のなかで自分を失うこと──人間関係が苦いものになる理由の大半がここにある。

パートナーになった2人は、1たす1は2より大きくなると期待したのに、2より小さくなってしまったことに気付く。
ひとりでいたときよりも、自分が小さくなったと感じる。
能力も小さくなれば、わくわくするような興奮も減り、魅力的でなくなり、喜びも満足も減ったと思う。

それは、彼らが小さくなったからだ。
人間関係を築くため──そして維持するために──に、自分の大半を捨ててしまったからである。

ほんとうの人間関係は、決してそんなものではない。
だが、あなたが考えるよりもずっと多くの人たちが、そういう人間関係を経験している。

神との対話1 P169-170

私たちは、恋人や友だちを作る前に、何よりも先に自分を認めて愛する必要があります。

そうでなければ、関係に苦しむことになるからです。
好きな相手を信頼できない苦しみは、とても辛く悲しいものです。
それでも似た者同士が惹かれ合い、何とか良好な関係になったとしても、1たす1は2以上の経験ができなくなってしまいます。
それはお互いが、自分自身を信頼していないがために、相手に合わせる必要があるからです。

大切なことは、まずは自分を大好きになることです。
そして愛されてきた自分を見つけ出すことです。
それからあなたを、私自身を、最大限に表現できるような相手を見つけるのです。
お互いに自分自身を分かち合い、最高と思っていた以上の幸福を共有するのです。

このように、神様の言われる「幸せな関係」は、まずは自分を愛することから始まります。

今日はここまでです。
次回もニールさんは、なぜ自分を愛せない人は「ほんとうの人間関係」を築くことができず、逆に好きな人との関係を築くために自分の大半を捨ててしまうのかを、神様に聞いています。

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