85.神との対話【解説】P176~179 人間関係⑥「自己中心的であれ」
まずは人間関係について、前回までの復習です。
・(人間関係の)目的は、ほんとうの自分は何者であるかを決め、ほんとうの自分になること、それである。
・(人間関係の)目的は、自分自身のどの部分を「明らかに」したいかを決定することである。
・「本当の自分らしさ」を、私たちは自分で決めることができる。自分で決めた”素晴らしい自分”を人間関係においてシェアすることも、人間関係の目的である。
・自分自身が聖なる存在であることを知れば、他者の価値や神聖さを認めることができる。よって、私たちは自己中心的であるのが良い。
・私たちは、イエス・キリストと同様に神聖な存在である。
・自分自身が神聖な存在であることに気付き、人間関係において自己中心的であれば…何に対して愛を感じるか、何をしたいか、自分は何者か、何をもっているのかを相手のことよりも先に考え、把握していれば…いつか人間関係に傷つかなくなる日がくるだろう。
・人間関係に傷つかなくなった時、私たちは”人間関係の真の意味と人間関係を結ぶ真の理由に気づく”ことができ、ようやく真の人間関係を実現する。
・人間関係に傷ついたとき、どう反応すればいいか。まず、自分がどう感じているかを自分にも相手にも正直に認めること、そして自分の感情を尊重し、大切にすること。そうすることによって、自分と他人の両方の感情を尊重できるようになる。(書き出して整理することをお勧めします)
・感情自体は「反応」であるため、それをコントロールしようとしてもただの応急処置のようなもの。根本にある考え方(観念)を変えなければ、何度も同じ感情はやってくる。どのような感情も尊重することでよってのみ、根本にある(もう古くなった変えるべき)考え方(観念)にたどり着ける。そのうえで「何者か」「何者になりたいか」と自分に問い、観念を変えることができる。
・「最も気高い選択とは何だろう」と、いつも自分に問えるのは、愛の領域にいるマスターの思考だ。
・一方、「最も有利で、損が少ないのは何だろう」と考えるのは、不安を持つ人の思考である。
・最も気高い選択ができる人は、自分自身に最高の善をもたらす。
前回は、「最も気高い選択とは、あなた自身に最高の善をもたらすものである」という神様の言葉から、本当にそうなのか?
『最も気高い選択』が、自分にとって善いものなのかどうか…自分にとって苦痛や困難をもたらすものではないか?という疑問で終わりました。
ここから神様は、より良い人生へと導くための「(人間関係における)現実的な応用」として、この一文について教えてくださっています。
「最も気高い選択」というものを、「他人にとって有益になるもの」や「他人が居心地良くなる選択」と考える人が多いと思います。
身を挺して他者を立てることが美徳だと、教わって育つ人が多いからです。
神さまは、以下のように書かれています。
古い理解にもとづいて、ひとは──善意で、しかも信仰心のあついひとは──人間関係のなかで、いちばんひとのためになると思うことをしてきた。
神との対話1 P177
悲しいことに、たいていはその結果として虐待されつづけてきた。
あるいは酷使されつづけてきた。
うまくいかない人間関係ばかりが続いた。
他者を基準として「正しいことをしよう」と努力したひと──すぐに許し、同情を示し、ある種の問題やふるまいを見過ごしつづけてきたひとたちは、結局は神を恨み、怒り、信じなくなった。
この解説を読んでくださっている人たちの中にも、同じように感じたことがあるかたがいらっしゃるかと思います。
「人のために」と自分を後回しにして我慢してやってきたのに、なぜうまくいかないのか?と疑問をもつ人がいらっしゃると思うのです。
私も「神との対話」に出会うまで、「自分の何がいけないのか?」とか、「自分はどうあるべきだったのだろう?」と考えて、人間関係についてどうすれば良いのか分からなくなったことがありました。
今では、「人のために」と思いながらしてきたことが、実は自分のためだったことが理解できます。
人のご機嫌を取ることは、「人は怒りっぽい存在」という観念をもち、人を怒らせないために・・・不安から自分を守るためにやってきた行為だったのです。
神様ははっきりと言われています。
神は(他者を中心に据えることで味わう苦しみを)要求しない。
それが答えである。神は、あなたが愛する相手に自分自身も含めるようにと求めているだけである。
神との対話1 P177
神はさらに先へ進む。
神は、自分を第一に考えることを提案し、勧めている
前回にもありましたが、ここでもまた「自己中心的であれ」と、神様は教えています。
自分を愛し、自分を第一に考えることが大切なのです。
気高い意味で自分自身を第一に考えるなら、決して神意にかなわない行動をするはずがない。
したがって、自分のために最善のことをしようとして、神意にかなわない行動になるなら、問題は自分を第一としたことではなくて、何が最善かを誤解したことにある。
もちろん、自分にとって何が最善かを見きわめるには、自分が何をしようとしているのかを見きわめなければならない
神との対話1 P177-178
無視している者が多いが、これは重要なステップである。
あなたは「何をしようと」しているのか?
あなたの人生の目的は何か?
その疑問に答えなければ、ある状況で何が「最善か」はいつまでも謎だろう。
「自分自身が、『今、何をしようと』しているのか」、「自分の人生の目的は何か」をはっきりさせることができれば、「今の最善」がわかるだろうということです。
ここで神様は三つの例を出してくださっています。
一つめの例は、自分が虐待されている場合。
”虐待されている状況で自分にとって最善なことは何かと考えれば、少なくともその虐待をやめさせなければならない。”
と書いてあります。
虐待をやめさせる理由は以下の通りです。
虐待をやめさせることはあなたにとっても、虐待する側にとっても良いことである。
神との対話1 P178
虐待を続けさせておけば、虐待する側までが虐待されることになるからだ。
それは虐待者を癒すのではなく、傷つけることである。
虐待は受け入れられるものだと思っていたら、虐待者は何も学べない。
ところが、虐待はもう受け入れられないとわかれば、虐待者は何かを発見できるだろう。
人を安易に傷つける人‥虐待する人は、大切なことを忘れてしまっている人です。
他人の痛みや苦しみを、自分自身に置き換えられない人です。
また、実は自分自身もたくさん苦しみ、痛めつけられてきたはずです。
そのために他人の苦しみも「当然のもの」として虐待者の世界観の中に存在し、感じられています。
けれども、虐待を受け入れる人がいれば、そのことに気づくことができません。
痛みや苦しみを自分が人に負わすことは、あってはならないことだと、知ることができないのです。
虐待を受ける人は、ただちに逃げるべきです。
「自分さえ我慢していれば」と虐待してくる人に理解を示したり、説教して改心させることなどする必要はありません。
とにかく、虐待行為をやめさせることが先決です。
たとえ虐待してくる人を愛していたとしても、愛しているならなおさら、やめさせるべきです。
なぜならそうすることで、”虐待者は何かを発見できる”からです。
神さまはここで二つ目の例をあげていらっしゃいます。
それは子供をもつ親の愛の例です。
愛情のある態度をとるということは、必ずしも相手の好きにさせるということではない。
神との対話1 P178
子供をもった両親はそのことをすぐに悟る。
おとながおとなに対する場合、国が国に対する場合には、そう早くは悟れない。
だが、横暴な独裁者を栄えさせてはいけないし、横暴はやめさせなくてはいけない。
自分への愛、独裁者への愛がそれを要求する。
横暴な独裁者を栄えさせないよう、横暴をやめさせるよう…いったい私たちは何ができるのでしょうか。
それは、本当は子どもを叱りたくなくても叱らなければならない「親」と同様のもののようです。
神さまがあげた三つ目の例は、国家間の戦争でした。
ときには、ほんとうの自分であるために、ほんとうの自分を放棄しなければならない。
神との対話1 P178-179
~略~
したがって、平和な人間としての自分を「まっとうする」ために、戦争に加わらないという考え方を放棄しなければならないかもしれない。
歴史は人間にそんな決意を求めてきた。
同じことは、私的な関係についても言える。
人生には、ほんとうの自分でない面をしめすことで、ほんとうの自分を証明することを要求されることが何度かある。
~略~
だからといって、人間関係で傷ついたら「仕返しせよ」というのではない(国家間の関係でも同じだ)。
ただ、傷つけられても放っておくことが、あなた自身にとっても他者にとっても愛ある行為とは限らない、というのである。
ほんとうの自分が愛に生きる人なら、時にはそのような自分を放棄して、そうして本当の自分(愛)を証明する…ということが人生には起きるとのことでした。
思い当たる人もいらっしゃるでしょう。
愛するがゆえに、自分らしくない厳しい自分を演じて、愛の対象のためにふるまったことを思い出す人もいらっしゃるはずです。
そのようなかたは、ご自分をめいっぱい誉めていただきたいと思います。
そしてその結果は、「愛されるあなた」という現実で締めくくられます。
なぜなら、与えたものは返ってくるからです。
次回もまた人間関係の続きです。
人間関係があることによって、人は自分を知ることができます。
「悪に対する愛ある行為とは何か」という疑問から、素晴らしい気付きを得ることができます。
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