39.神との対話【解説】P62 善良さ(愛)という本能

前回、地獄が存在しないことを知ったニールさんは、地獄で罰せられるという報いがないなら、人は何も恐れず好きなように行動することができるということでしょうかと、神さまに質問されました。

それは、恐れがなければ人間が平気で悪を犯してしまうのではないかという懸念から、発せられた質問でした。

その質問に対して神さまは、質問で返されました。

不安でなければ正しい者にならず、正しいことをしないのか?
おどかされなければ、「善良」にならないのか?

神との対話1 P62

20年前、この部分を最初に読んだとき、自分ならどうだろうと考えました。

私が善良なのは、法律を犯して罰せられることが怖いからなのか、
人から批判されるのがイヤだからなのか・・・と自分に問いかけ、考えてみたのです。

すると、決してそうではないということが判りました。

困っている人がいたら助けたい。落し物は届けたい。
人のものを奪うようなことは絶対にしたくないし、しない。
人を苦しめたくないし、ずるいことはしたくない。
人に優しくされると嬉しい、だから自分も優しくしたい。
「ありがとう」と言ってもらえたり、喜んでもらえたら嬉しい。
・・・このように思う自分は、たとえ地獄があってもなくてもいつも善良でありたいし、善良さを誰かに示すだろうと考えました。

さらに、自分が善良なのは「本能」だと感じました。

同様に、私の周囲にいる人たちも善良な存在だということが、明確に判りました。

もちろん犯罪を犯す人もいますし、平気で人を傷つける人も実際にいらっしゃいます。
けれどもそういう人たちでさえ、やはり「ありがとう」と言われると嬉しく感じるのではないでしょうか。善良さの芽が心のどこかに芽吹いているのではないでしょうか。

人は本能として「善良」なところを持っていることを、こうして内観することで知りました。

言っておくが、規則をつくるのはあなたがた自身だ。
あなたがたが指針を示すのだ。
自分がどれだけ善良であったかを決めるのは、自分自身だ。
あなたがほんとうは何者であるか、そして何者になりたいかを決めるのは、あなただ。
そして、どこまで目的を果たせたかを決めるのも、あなただ。

神との対話1 P62

上記の引用を読むと、私たちは与えられた人生の中で「善良でありたい」という本能をいかに…どこまで実践できるのか、自分自身でチャレンジしているように感じました。

またこれまで学んできたように、善良な自分を選ぶにあたって、その対極である善良でない自分というものを経験する必要があります。
もちろん私自身も、善良でなかった自分を経験しています。
記憶にない時代である前世の私も、たくさんの善良ではない…身勝手な迷惑行為をする自分を経験しているはずです。

善良でない自分を経験する理由は、相対するものがなければ、愛(善良さ)を知ることができないからです。
身勝手であることの虚しさ、迷惑行為をしてもただ孤独になるだけ・・・そういう経験があってこそ、愛することや愛されることや協力し合うことなどの素晴らしさを知ることができるのです。
相対するもの…コントラストがなければ、何が素晴らしいのかを知ることはできません。

そしてそれ(善良ではない自分)であってもいい(許されている)ということを、神さまは次のように言われています。

あなたがたが完璧で、すべての行為が完璧であることを望んだのなら、神ははじめからあなたがたを完璧なものとして創ったはずではないか。
肝心なのは、あなたがたが自分自身を発見し、真の自分、ほんとうにそうありたい自分を創り出すことだ。
だが、それとはべつの選択肢がなければ、真の自分を発見して創り出すことはできない。

それなのに、わたしが与えた選択肢のどれかを選んだからといって、あなたがたを罰したりするはずがない。

神との対話1 P62

善良さを心にもつ私たちは、ただ善良さをもっているだけではなく、実際に行動を起こすことが必要です。
そうでなければ、善良な自分を世界に示すことはできません。

善良さを表現することは、慣れない人には勇気が必要かも知れません。
また自己肯定感が低いために、自分が良いことをするのが偽善なのではないか?と、自問自答して苦しんでいる人がいらっしゃるかも知れません。
でもたとえ偽善だとしても、その行いのために誰かが助かるなら、する方が良いです。

そうやって努力しながらでも、自分自身の中に最初からある神の性質…善良さを表現して世間に示すことは、素晴らしいことです。

なぜなら、本来の私たちは愛があって善良だからです。
そして本来の自分自身を自由に表現できることこそ、私たちが望んでいることだからです。
 

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