第二章に入りました。
第一章では、宇宙の創生や引き寄せの法則、自然の法則など、スピリチュアルの基本の部分が80ページにまたがって説明されていました。
私が20年以上前に感じたたくさんの驚きや、目が覚めたような思いなどが、ここを見る人に伝わっていると良いなと思います。
20年が過ぎ、スピリチュアルはどんどん進みました。
当時はまだ真新しかった発見や教えが、今では多くの人の伝達によって広く知られるようになりました。
風の時代に入ってから、その勢いは増すばかりです。
それでも「神との対話」で説明されている、世界や人が存在する理由や仕組み、真理は、すべての教えの根幹の部分として存在し、変わることはないでしょう。
84ページで、ニールさんはあまりに”普通に”神さまとの対話がなされていることに、ふと疑問を感じた様子です。
そのため「神とのコミュニケーションとは、こんなものではないと思います」と、神さまに質問されました。
神さまは、
「神の来臨らしい鐘の音や笛の響きを聞きたいのだったら、聞かせてやってもいい」などと軽口をたたいたのですが、
ニールさんは、自分が神に対する冒瀆を犯しているのではないか、また人から「冒瀆(ぼうとく)だ」と非難されるのではないかということに怖れを抱きました。
そこで神さまは、神の現れかた、在りかたについて、説明されました。
ひとつ説明しておこう。
神との対話1 P85
あなたは、神が姿を表す方法はひとつしかないと思っている。
そういう考え方は、非常に危険だよ。
そう考えていては、あらゆるところに神を見ることはできない。
神の現れ方はひとつしかないとか、語り方はひとつしかない、神の在り方はひとつしかないと思っていると、毎日わたしを見ていても気付かないだろう。
~略~
神は悲しみのなかにも笑いのなかにも、苦さのなかにも甘さのなかにもいる。
すべての奥に聖なる目的がある──したがって、すべてのなかに聖なる存在がある。
ここでニールさんは、以前にご自分が書きかけていた本のことを神さまにお話しされました。
それは「神はサラミ・サンドイッチである」というタイトルで、やはりその本も、
神への冒瀆であり的外れじゃないかと思ったため書くのをやめたのだと、神さまに伝えました。
すると神さまは、神さまに対する一般的な印象…神々しく、おごそかで、畏れ多い…に対して、それは実際の神とは異なっていることをお話されました。
神が、いかにもそれらしく「神々しく」なければならないと、どこから思いついたのか?
神との対話1 P86
神は上昇であり下降。炎暑であり酷寒。左であり右。
そして的確であり的外れなのだよ!
前回、自然の法則で、
「存在するすべては愛である」
と学びました。
愛=神とも云われるのですが、存在するすべては愛であり、神だとすれば、
神々しくないものであっても…悪と呼ばれ人びとに忌み嫌われるものであったとしても、やはりすべては神であり愛ということになります。
そのことに納得できないニールさんは、
人間が創り出した悪をも、神さまは本当に肯定しているのかどうかを神さまに質問しました。
神さまは、人間が創り出す思考、品物、出来事、経験のすべてが、神の計画の中にあることをお話されました。
私たちは常に神の計画の中にあって、自由に行動し、すべてのものを生み出すことができます。
この自由は、”神が神であることの体験”をするために与えられています。
これまでも何度か説明してきましたが、”闇”もまた”愛”を経験するために存在しています。
悪と言うが、それはあなたがたがそう呼ぶだけだ。
神との対話1 P87
だが、その悪だってわたしは愛する。
悪と呼ぶものを通じて、あなたがたは善を知り、神の業を行うことができるからだ。
わたしは寒さも暑さも愛している。右も左も愛している。
すべては相対的である。すべては、あるものの一部である。
わたしは「善」を愛しているのと同じように、「悪」を愛している。
このことが理解できれば、あなたがたは神を理解できるだろう。
神は善いものだけではなく、「悪」と呼ばれるものすべてを包み込み、愛し、慈しむ存在です。
私たちのもつ幼さもすべて、深く神さまに愛されています。
多くの人が、何らかの罪悪感を持っているのではないでしょうか。
罪悪感のため、自分には生きる価値さえないと感じている人もいらっしゃるかも知れません。
何らかの悪行、何らかの間違いのすべては、自らの幼さから生まれています。
幼さでは済まされないような恐ろしいことも、あるかも知れません。
それでも、それらすべてが神によって許され愛されていることを、もしも自覚できるなら、
ここで神が言うように”神を理解できた”ということになるのでしょう。
善と悪は対立しないし、すべてが神に受け入れられているのですが、
それはまだ、ニールさんには納得ができない教えでした。
神は何でも「受け入れる」。
神との対話1 P87
存在するものを神が受け入れないはずはない。
拒否するというのは、その存在を否定することだ。
何かがいけないと言うのは、それがわたしの一部ではないと言うことである。
そんなことはありえない。
以上のように、改めて、神がすべてを許し受け入れていることをお話しながら、
次に、私たちのもつスタンスについてお話されました。
私たちは「自分の信念を持ち、自分の価値観に従うように」と、神さまに言われています。
文化や家庭や自らの経験によって培われてきた信念や価値観は、尊重されているのです。
「自分自身の価値観があなたの人生の骨組みになっている」と、言われており、
価値観や信念は、一人ひとりの人格と行動と経験にまとまりをもたらします。
けれども、ここで神さまは大切な”但し書き”をしてくださいました。
ただ、価値観をひとつずつ検討しなさい。
ひとつずつ、見なおしなさい。
家を解体するのではなく、レンガをひとつずつ調べ、壊れていて、もう家の構造を支えられなくなっているものはとり替えなさい。善悪についてのあなたがたの考え、それもあなたがたをかたちづくり、創造する思考のひとつだ。
神との対話1 P88
その思考を変える理由はひとつしかない。
あなたがたが、「そう考えている自分」では幸福ではないときだけだ。
私たちの幸福度というものは、その人を取り巻く環境や状況よりも、自身がもつ価値観や観念によって大きく変わるものです。
次回は自分の持つ価値観を見なおすことについて、説明します。
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