81.神との対話【解説】P165~167 人間関係②「素晴らしいパートナーを得る」
前回の復習をします。
家族関係や恋愛など人間関係に悩むことが多かったニールさんは、神様に質問しました。
わたしはいつになったらもっと利口になって、なめらかな人間関係がもてるようになるんでしょう?
神との対話1 P165
幸せな関係を築く方法があるのですか?
それとも、人間関係というのは、いつまでたっても難題なのですか?
神様が答えられたのは11の内容でしたが、
ここには要点のみ記します。
・幸せな関係を築くには、”人間関係の本来の目的”のために、関係を活用すると良い
・創造と表現を通して、”自身のすばらしさ”を経験することが、人間関係では可能である
・「他」がなければ「自分」はない
・人間関係について深く理解できると、すべての経験、出会い、関係をうれしいと思えるようになる
・すべての関係を”うれしいもの”、”特別なもの”、”自分を創りあげる経験”として捉えると良い
・出来事に対して「どうありたいのか」「今、何をするか」という決断を通じて、どんな人間になるかを選ぶことができる
「神との対話」のこの数行の中には、たくさんの教えが含まれていて、大きく簡略化されています。
そういう意味で理解しにくい内容ですが、ここは要点の中の要点なので仕方がないことです。
前回の内容で覚えておきたいことは、以下の2点です。
「本来、人間関係は『うれしいもの』である」
「出来事に対して『どうありたいのか』『今、何をするか』という決断を通じて、自分がどのような人間になるのかを選べる」
その理由などは、これからの説明に期待してください。
今日は人間関係の目的について、神様がお話をされています。
人間関係の目的は、自分自身のどの部分を「明らかに」したいかを決定することであって、相手のどんな部分を把握し、つかまえておきたいかを決めることではない。
神との対話1 P166
人間関係の目的はひとつしかない──それは、人生のすべてに言えることだ。
目的は、ほんとうの自分は何者であるかを決め、ほんとうの自分になること、それである。
自分の外側にある世界は、自分の心の内側の世界が鏡のように映し出されたものと学んできました。
それが事実だとすると、外側にある世界が”厳しい人””冷たい人””恐ろしい人”でいっぱいである場合、二つの理由が考えられます。
一つは、「他人はみんな怖い」という”思い込み”を持っている場合。
そのような思い込みを作ってしまったのは、それまでの(過去の)環境によるものです。
でもそう思っていると、確実に、怖い人が多く引き寄せられてしまいます。
もう一つは、自分自身も同じ性質をもっていて、それが外側に表現されている場合。
よく、「他人を批判・ジャッジをしないように」とか「正義を振りかざさないように」などと、聞くことがあります。
そう言われる理由は幾つかありますが、
”自分の外側にある世界を寛容で優しい世界にしたいなら、まずは外側に映し出す自分の内面を寛容で優しくしましょう”というのも、大きな理由の一つです。
つまり、人間関係というものも、やはり”自分自身が主体”です。
人生に特別な相手が現れて自分が満たされたと感じる、というのは非常にロマンティックだ。
神との対話1 P166
だが、人間関係の目的は、相手に満たしてもらうことではなく、
「完全な自分」──つまりほんとうの自分という存在をまるごと──分かち合う相手をもつことだ。
パートナーシップを含む人間関係の目的は、「自分をまるごと」分かち合う相手をもつこと、とのこと。
自分を満たしてくれたり、欠けた部分を補ってくれたりする「特別な相手」は、必要ではないし、そもそも存在しないとみなして良いのでしょう。
年齢を経ると、人間関係やパートナーシップに期待しなくなってしまう悲しさや寂しさも、その理由は「誤解」にあると、神様は言われています。
問題は、非常にシンプルで、しかも悲劇的な誤解にある。
神との対話1 P167
あなたの壮大な夢、気高い思い、そして優しい希望は、愛する自分ではなく愛する他者にかかわるものだという誤解だ。
人間関係の試練は、相手があなたの思いにどこまで応えてくれるか、自分が相手の思いにどこまで応えられるかにある、と思い込む誤解だ。
しかし、真の試練とは、あなたがあなた自身への思いにどこまで応えられるか、ということなのだ。
神様は、ここでもはっきりと、人間関係について
「(他者ではなく)自分が自分自身への思いにどこまで応えられるか」と、言われています。
それはどういうことなのでしょうか。
ピンと来たかたもいらしゃることでしょう。
先ほど、自分の内側の世界が外側に映し出されていることを、お伝えしました。
以前から、自分が持つ信念や思考や感情、行動によって物事(世界)は創造されると、何度もお伝えしてきました。
人間関係もパートナーシップも同様で、「自分の思い(思い込み)」とそれに根差した行動が創っているものです。
目の前の人物や関係性は、まさに”自分がそうだと信じてきたことを表している”のです。
私は裏切られるだろう、私は愛されないだろう、私は孤独に生きるのだろう
などという「根っこにある思い」が存在するがゆえに、務めて誰かに尽くしたり優しくしたりしたとしても、
現実化は根っこにある思いに従ってしまいます。
自分が自分に対して、どのような思いをもっているのか。信念があるのか。
もしそれが自分を否定してしまう「ネガティブな思い」なら、できるだけ早くネガティブを認め、自分や誰かを理解して許すことで、手放す方向にもっていくと良いことが理解できるでしょう。
それが上記の、
しかし、真の試練とは、あなたがあなた自身への思いにどこまで応えられるか、ということなのだ。
という一文で表わされています。
けれども、一見厳しく見えるこの教えも、誤解が取れれば素晴らしい希望へと変わります。
なぜなら、ずっと欲しかった素晴らしいパートナーシップというのは、探し当てた特別な人ではなく、
「私が創り出すことができる」と、解るからです。
「私は特別な誰かに愛される存在だ」「その相手は私のことも特別だと思ってくれる」
「相手は私のまるごとを愛してくれる」「私も相手のまるごとを愛する」
「二人の愛は永遠に続く」
以上のことを、自分で信じて創造することが、誰にも‥‥幾つになっても可能なのです。
人間関係が神聖なのは、最も気高い自分をとらえて実現する経験ができる、つまり自分を創造する最大の機会──それどころか、唯一の機会──を与えてくれるからだ。
逆に、相手の最も気高い部分をとらえて経験する、つまり他者との経験のための最大の機会だと考えると、失敗する。人間関係では、それぞれが自分のことを考えるべきだ。
神との対話1 P167
自分は何者か、何をするか、何をもっているか、自分は何を欲し、要求し、与えているか。
自分は何を求め、創造し、経験しているか。
そう考えれば、すべての人間関係はすばらしいものとなり、その目的に──そして関係を結んでいる人間にとっても──大いに役立つだろう。
自分は何者か ────── 人に好かれる・パートナーに心から愛される者である
何をするか ────── 人に好意をもつ、パートナーを心から愛する
何をもっているか ── 人に喜ばれる性格・才能をもっている
自分は何を欲し、要求するか ── 人たちからの愛と尊重を要する・パートナーからの特別な愛と尊重を要する
自分は何を与えているか ── 人たちへの愛と尊重を与えている・パートナーへの特別な愛と尊重を与えている
自分は何を求め、創造し、経験しているか
── 人々が優しい社会を経験している・パートナーとの穏やかで平和で愛にあふれた日常を経験している
以上のようなことが”自分自身”として、しっかりと心に浸透すれば、確かにすべての人間関係はすばらしいものとなりますし、
そうして自分を「愛の人」として創造することは、人間関係の目的としてすばらしく役立つものとなるでしょう。
今日はここまでです。次回も人間関係について続きます。
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