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神との対話1【解説】P203~206 破壊されていいような生命をわたしは創造しなかった | HIKARIヒーリングスクール@沖縄

神との対話1【解説】P203~206 破壊されていいような生命をわたしは創造しなかった

神との対話1【解説】P203~206 破壊されていいような生命をわたしは創造しなかった

前回、ニールさんは、神様から「ほんとうの自分であること」は人生で一番の難題であり、一度の生涯で成功するひとはほとんどいないと告げられ、怒りを感じました。

ニールさんも私たちも「ほんとうの自分になる」ことは、ただ「ありのままにある」ことだと誤解しがちです。でも多くの人たちにとっての「ありのままの自分」というものは、数えきれない程の常識や外から入ってきた思考に覆われていて行動まで制限されてしまっている”自分”のことなのです。

ほんとうの自分(真我)とは、自分の中にありながら到達が難しい「超意識」=ハイアーセルフのことです。
真我を垣間見るには、様々な手法がありますが…瞑想等を通して自身を癒しつつ、エゴを超えていく宇宙の静けさや躍動を身につけるなど、数々の変化が必要です。
真我に近付き、ほんとうの自分であることは、素晴らしい安らぎを得ることでもあります。

また、「何度も生まれ変わることを知ること」で、私たちには本当は”失敗などない”のだと知るよう、神さまが促してくれました。

確かに、人生で起きるすべての出来事はただ「経験」でしかなく、そこで何を感じるかは人によってまったく違います。
例えば何かに失敗した場合、「失敗した!恥ずかしい!自分は何てダメな奴なんだ」と自分を責める人もいれば、「これも過程(プロセス)の中の1つ。」と冷静に捉えられる人もいます。「またひとつ学んだ!楽しい!」と思う人さえ、いらっしゃるでしょう。
私たちは心の成長を通じて、経験によって何を感じたいのか、何を得たいのかを自分で選び取る強さが身につくようになります。

誰もが生まれ変わりながら数千年‥数万年も生きていると仮定すると、すべての人に今の自分と同様の経験があるはずです。みんな同じです。
過去に起こしてしまった事への強い罪悪感や、誰かとの比較によって、恥ずかしいから消えてしまう(穴に入ってしまう)必要は、まったくありません。
苦しくても辛くても、それは地球に生きるすべての人が経験する1過程であり、必ず乗り越えられます。

私たちに与えられているのは「経験と機会」です。そこから何を感じ、学びや気付きに変えていくのかは私たち自身が選び、決めていくことなのです。

次に神さまは、ご自身がこの本の中で「わたしがこうして来たのは、あなたをさらに混乱させるためではない。ものごとを明らかにして、あなたを助けるために来たのだ」と言われました。
この本は、長く秘密にしてあったことや、伝承していてもそれを真実と受け取れずにいた様々なことを私たちに教えてくれています。

前回までの復習はここまでです。

ニールさんは当時、生活苦を抱えていましたが、神さまはその暮らしをニールさん自身が望み、何百回もの人生を経験したうえで選んでいるのだと、伝えられました。

ニールさんはがっかりして「それなのに(何百回も人生を経験しているのに)、ここまでしか来られなかったのでしょうか?」と神様に聞きました。

神さまは「そうでもない、かなりのところまできている」と答えながら、過去生のニールさんが人を殺してしまっていることを伝えました。
今、生きている人々のほとんどすべての人たちが、過去生で人を殺めたことはあると思われます。
それが戦争のためなのか、嫉妬などの怒りや決闘なのか、家族内の揉め事なのかは分かりませんが。
もしかすると、その全部を私たちは経験しているのかも知れません。
そうだとしても、自分自身を含め人を殺めることは、あってはならない重い罪であることは明らかです。

ここでニールさんは、「あなたは、悪を終わらせるために戦争が必要なこともあると言われたではありませんか」と反論しました。

神さまは、
”その言葉は──あなたがしたように──さまざまな主張のため、さまざまな狂気を正当化するために利用され、誤用されてきた”と前置きして、誰かが誰かを「殺める」ことを「とんでもないことだ」と説明されました。

わたしが人間を眺める最高の基準に照らせば、怒りの表現や敵意の放出、「悪を正し」、敵対者を罰する手段として、殺害が正当化されることは決してない。

悪を終わらせるために戦争が必要なこともある、というのは真実だ──あなたがたがそうさせてきたのだ。

あなたがたは、自らを創造するなかで、人命の尊重がいちばん大切だ、そうでなければいけないと決めた。あなたがたがそう決めたことは、うれしい。破壊されてもいいような生命を、わたしは創造しなかったからだ。

神との対話1 P205

私たちのほとんど全員に、愛する家族がいるはずです。愛する友人や仲間もいっらしゃることでしょう。
悪を終わらせるために戦争が起きたとして、自分の愛する家族がその争いで亡くなり、命を失ってしまったとしたら、私たちは本当に戦争を「でもあれは悪を終わらせるために必要だったんだ」と理解して幸せな気持ちになれるのでしょうか。
少なくとも私自身は絶対に、そのような気持ちにはなれません。
同じようなことがテーマの映画が幾本もあります。

神様が言われる「破壊されてもいいような生命を、わたしは創造しなかった」という言葉を真実として受け止めたいと思いました。

その人命尊重のために、(人間界では)ときに戦争が必要になる。さしせまった悪で対抗することを通じて、他の生命に脅威が迫ったときの防衛を通じて、あなたがたは自分が何者であるかをはっきりさせるからだ。

最高の倫理法のもとでは──その法のもとではあなたがたは義務を有するが──ほかのひとやあなたに対する攻撃をやめさせる権利をもっている。それどころか、それは義務でもある。

だからといって、懲罰としての殺害や、報復としての殺害、小さな違いを解決する手段としての殺害が行われてもいいということではない。

神との対話1 P205

私たちに争いが必要になるのは、私たち全員が「自分や他の人に対する攻撃をやめさせる義務や権利をもっている」から、とのこと。
でもだからといって、懲罰や報復、小さな違いの解決の手段として、殺害が行われてもいいということではないと、神さまは言われました。

今日ですら、多くの人間がばかばかしい争いを解決するために力──殺傷力──を使っている。

神の名をかたって人間を殺害するという偽善をしている者までいる。
これは最大の冒涜だ。
「ほんとうのあなたがた」にふさわしくないからだ。

神との対話1 P206

ほんとうの私たち人間は、分け御霊を与えられた…愛でいっぱいの「神」であるずです。
また、この世では肉体をもって別々に認識され、「他人」とされますが、本来は一つの存在の一部であり、誰もが宇宙存在(神)そのものです。
本来は清らかな光として一つである自分たちに、人を傷つけることはふさわしくないのだと、神さまは言われています。

自分や大切なものを守るという目的以外で、国や他人を傷つける争いが起きたりするのは、何故でしょうか。
それは表面に付けられた正しそうに見える理由からではなく、深く突き詰めていくと、自分自身を「高みに置きたい」という個人的な欲望を満たすためだと感じることがあります。
そしてその欲望は、実は「私は弱くて力がない、孤独だ」という悲しい自己肯定感の低さから生まれているようです。自分の存在価値を世の中に示すために、正しさを主張し、こぶしを振り上げているように見えるのです。
私自身の経験と内観から、多くの人にはそのような「自分を認められない悲しみ」が、心の中にあるように感じています。
しかしその悲しみを癒すには、他人にこぶしを振り上げることが逆効果だということも理解しています。(なぜなら他人=自分自身だから)
自分の価値を認められないという悲しみを癒すには、カルマとして外側に現れている現象を各人が経験し、乗り越えていくことで、子どものように無知で利己的に過ごしてきた自分自身に気付き、理解したり許したり、感謝したり愛おしく感じたりすることから始まるように思えます。その中で、万物との縁や繫がりがはっきりと見えてくることでしょう。
そうしていつか、宇宙空間に満ちている大きな神の愛に気付き、同じ愛が自分にも同等にあることを知り、自分自身の真価に気付いたまま毎日を過ごしていければ、もう悲しくも寂しくもなく、ただ安心して喜びの中で生きていけるのだと思えます。

今日はここまでです。次回は「間違い」と「正しさ」についてのお話があります。

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